大東さんはソロのロック系アイドル歌手としてデビュー
芸能界は勝てば官軍だが、売れないと所属事務所内でも肩身の狭い思いをする。お茶汲みやコピー取り、他の歌手のレコードの整理、書類運びなどで所在ない日々を送った。大東さんは何度も名古屋へ帰ってしまおうと思ったという。
「長女気質でしっかり者だった私は、『両親にはいっさい面倒をかけない!』と宣言して上京し、高校の学費も生活費も自分でまかなっていたので、ふだんの生活も大変でした。
品川のアパートの家賃は事務所が支払ってくれ、月給も7万円をいただいていました。でも、それでは足りません。事務所に内緒で、武蔵小山商店街『パルム』の中にあるケーキ屋さんでアルバイトしていました。そうしたら、あるとき滑って階段から落ちて腰の骨を折ってしまったんです」
入院を余儀なくされ、事務所にバイトの事実がばれてしまった。芸能活動継続の危機と思われた出来事だったが、それが大東さんの転機となった。
事務所のバラエティ班が大東さんのために動き始め、高校卒業後の1991年、ラジオ番組『モアモア爆笑新鮮組』(ニッポン放送)のアシスタントとしてレギュラーに。明るいしゃべりも解禁となり、ようやく“芸能人・大東めぐみ”が日の目を見始めたのだ。
『モアモア爆笑新鮮組』の放送を聞いた放送作家でタレントの高田文夫氏が、自身の人気ラジオ番組『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)のアシスタントに大東さんを抜擢。そこからは、あれよあれよという間に売れっ子バラエティタレントに。とくにリポーターとして存在感を発揮した。
「伝える仕事という意味では、歌もしゃべり言葉も同じ。心をこめて言葉にし、どこでもどんな場所でも、私にしかできないリポートで現場を伝えるんだ、と誇りをもったことで、仕事がどんどん増えました」