美術史家の辻惟雄氏(左)と山下裕二氏が語り合う(撮影/太田真三)
日本絵画表現に革新をもたらし、後の画壇の“正統の系譜”の祖となった画家・円山応挙(おうきょ)。美術史家の辻惟雄氏(93)と山下裕二氏(67)が、その業績を“奇想の画家”伊藤若冲(じゃくちゅう)と対比して案内する。
江戸の人々が初めて体験する「3D」
山下:先日は文化勲章の受章、おめでとうございます。辻先生は1970年の名著『奇想の系譜』で、かつて異端とされた伊藤若冲らに着目し、日本美術史における評価を塗り替えられました。
辻:若冲や曽我蕭白(しょうはく)といった、それまで忘れ去られていた画家を紹介しました。江戸時代の絵画と現代絵画、漫画やアニメとをつなげた“奇想の書”でもあります。
山下:『奇想の系譜』を書かれた約10年後、大学4年生の私は辻先生の授業を受けたわけですが、若冲は当時、教科書にも載っていませんでした。
対して、円山応挙は必ず教科書に載っていて、図版も出ていた。私も小学生の頃から知っていたと思います。
辻:しかし、今では展覧会でも若冲など“奇想”が優勢で、かつて巨匠視された応挙の影は薄くなってしまいました。そこで、逆転した価値の修正、日本美術における「正統の画家」と「奇想の画家」のバランス回復を願っているのです。
応挙の特徴は、写生に基づく写実描写を応用した画風を創始したことです。若冲は観察したものを自分流にデフォルメするところがありますが、応挙は形を正確に捉えることを徹底しました。
山下:はい。ゆえに今の眼で見ると“リアルに描いた普通の絵”と思うかもしれませんが、当時の江戸の人々には初めて体験する3D、ヴァーチャル・リアリティーのごとく眼前に迫ってきた。京都画壇の革新者でした。
応挙は農家の次男坊から筆の力で稀代の絵師へ上り詰めた人物で、10~20代に奉公先の玩具商で眼鏡絵(凸レンズを通して遠近感を楽しむ風景画)を制作した経験が後の作画に生きています。
辻:中国経由でオランダから伝わった眼鏡絵で、西洋的な立体表現や空間描写、三次元的な捉え方が培われたのでしょう。
山下:当時から当代随一の人気を誇り、京都画壇を席巻した応挙は、大勢の弟子に慕われた人物でもありました。花鳥、動物、人物、山水など描けるレパートリーが幅広く、牡丹と孔雀、仔犬などの画題は弟子の長沢芦雪などへ受け継がれている。その意味でも巨匠と言えます。
辻:応挙は千人近くの弟子がいたとされます。それほどでないと“巨匠”にはなれない。その点で奇想の若冲も蕭白も工房を主宰していたけれど、規模として巨匠とは言いきれません。19~20世紀の竹内栖鳳(せいほう)や上村松園(しょうえん)など、近代まで続く画派「円山四条派」の祖となる応挙の影響力は突出していたのです。
