ほか、意外な素顔もある。江蘇省北部の農民出身の彼は農業に並々ならぬ思い入れがあるらしく、奈良県葛城市と大阪府阪南市にある「日中友好モデル田」にそれぞれ年2回(=田植えと稲刈り)必ず訪問。本人も「来月は田植えだ!」と張り切ってポストしている。
Xにアップされた動画からは、故郷の農民の技である「苗投げ」を披露し、素人離れした速度で田植えをおこなう彼の勇姿も確認できる。
ただ、外交・日中友好関係筋によると、薛剣の「本業」の評判はそう悪くない。尖閣問題などの核心的利益(中国が妥協しない問題)には頑なだが、その他の部分では日本側の要望も聞き入れる柔軟な外交官だという。
「気さくなナイスミドル。Xの投稿を読んだと伝えると、妙に恥ずかしげだったのが印象的でした」
日中交流イベントで薛剣と会った20代の日本人女性はそう話す。
そもそも、彼は現在こそSNSで教条的な言説を撒き散らしているが、これは過去から一貫した立場ではない。薛剣は北京外国語学院に在学中の1989年、天安門事件の民主化学生運動に参加。外交官になった後も、親しい人物に参加歴を明かしていたことが確認されている。以前の彼と面識がある日本人記者は言う。
「体制改革が検討されていた前政権(胡錦濤)時代の薛剣は、極めてリベラルな言説が多かった。オフレコで会うと、中国の外交官がここまで言うかと思うくらい開明的な意見の持ち主だった」
出世や保身のためか。事情は知る由もないが、彼は40代を過ぎてタカ派の戦狼外交官に転向。SNSの暴言大王になってしまったのである。
「首斬り発言」が日本で問題視されるなか、中国外交部は薛剣を擁護する構えだ。彼の主張は、党の基準では政治的に正しい。また過激表現も中国が他国を恫喝する際にはときに用いられるもので、処分の必要はなしと判断しているのだろう。
中国の党官僚のグロテスクさと、国際感覚の欠如。今回の暴言事件はその象徴だろう。
【プロフィール】
安田峰俊(やすだ・みねとし)/ルポライター。1982年、滋賀県生まれ。立命館大学人文科学研究所客員協力研究員。『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』(KADOKAWA)で第5回城山三郎賞、第50回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『戦狼中国の対日工作』(文春新書)など著書多数。近著に『民族がわかれば中国がわかる』(中公新書ラクレ)がある。
※週刊ポスト2025年11月28日・12月5日号