日体大・大塚正美選手(前列右から2人目)の同期「79年入学組」は実力者が揃った黄金世代だった(1983年第59回大会で優勝した日体大チーム。写真は大塚氏提供)
「箱根駅伝」で数々の名勝負を生んできた“山登りの5区”。小田原中継所から最高地点874mまで急坂を駆け登るこのコースでは「山の神」や「山の妖精」と呼ばれる選手たちが生まれた。だが、かつてこの箱根湯本を、大音量のテクノポップを流しながら走った選手がいたという──それが、古豪・日本体育大学の伝説のランナー・大塚正美選手だった。まだテレビ中継もされていなかった時代の箱根の秘話を明かす。
話題の新刊『箱根駅伝“最強ランナー”大塚正美伝説』(飯倉章著)より抜粋・再構成。
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【大塚正美成績】1981年・第57回大会 5区「区間賞」
1981年1月2日、第57回箱根駅伝が始まった。5区のスタート地点である小田原中継所でタスキを受けた大塚正美選手は、勢いよく飛び出した。先頭は順天堂大学の上田誠仁選手、次は大東文化大の選手だった。
3位という順位には、まったくプレッシャーを感じなかった。
〈どのみち、抜いてやるんだから……〉
先頭との差は1分55秒。
〈いける!〉と思った。
大塚の後ろには伴走車が走っていた。
今では監督車がつくが、当時は大学の幟(のぼり)をつけた自衛隊のジープが伴走車で、自衛隊員が運転し、助手席には主催する関東学連(関東学生陸上競技連盟)の役員(審判員)が座って必要な誘導などをした。後部座席には、大学関係者2人が乗る。監督・コーチ、あるいはマネージャーである。この時には監督は乗っていなかった。選手の後ろについた伴走車は、5区では途中から前に入ることになっていた。
今では監督の声掛けが注目されるが、大塚はあれこれ指図を受けたくなかった。
「どうせ、お前ら嘘をつくんだから、ラップとかの指示は要らない」と大塚はマネージャーらに事前に伝えていた。「走るのはオレだ! 伴走車は黙ってろ!」
自分の走りは、その日の調子で自分が判断するものだし、そうして自分の走りに集中したかった。
ただ、先行する上田選手の情報は、こまめに伝えてもらった。
