3日後に手術。全身麻酔から目が覚めると「成功した」と知らされました。しかし術後は毎日40度以上の熱が出て、小指が親指ぐらいに腫れ上がった。それらが落ち着いて、退院許可が出たのは15日目のことです。
「完全にカムバックできるかどうかは、君のリハビリにかかっている。赤ん坊の成長と同じ。1日1日、ゆっくりやるように」という博士のアドバイスを元に、細かいプログラムに従ってリハビリを続けました。
最初はスポンジを握っただけでも指がむくむ状態でしたが、次第にボールも投げられるようになった。3か月後、10mのキャッチボールを30球までという制限で始め、その後は月単位で距離を伸ばす。もう一度マウンドに立って、先発完投で勝ちたいという気持ちが、辛いリハビリを支えていました。
1984年の開幕時には二軍のシート打撃で投げられるほどになり、1985年4月には西武戦で先発できた。その時の博士の指示は「5イニング・100球がメド」でしたが、『人生先発完投』がモットーの私は9回・155球を投げ切った。博士の言う通り、100球を超えた辺りで腕が痺れてきたのには驚きましたね。1073日ぶりの勝利投手。普段は不愛想な落合(博満)が、くしゃくしゃの笑顔で走り寄ってきたのを覚えています。
その後も博士との交流は続きましたが、偉ぶることなく、「私を日本で有名にしてくれたのはムラタの頑張りだ」、「君は医学を超えた」などと言ってくれた。謙虚で好感が持てる、笑顔が素敵な人でした。生きる力を取り戻させてくれた私の恩人であり、後輩たちに手術を怖がらなくていいというメッセージを残してくれた日本球界の恩人でもあります。
※週刊ポスト2014年3月28日号