まず第一~第三講義では旧約聖書の中から「創世記」「出エジプト記」「申命記」を読む。全能の神ヤハウェがこの宇宙を6日で創造し、アダムとイブが楽園を追われて以降、その子・カインとアベルの諍いや、人間を創ったことを後悔した神が自らに従うノアだけを救った洪水の話、約束の地カナン(現パレスチナ)を与えられたアブラハムやその子孫など、〈イスラエルの民〉代々の苦難の歴史が続く。
エジプトで使役された彼らが預言者モーセに導かれて旅に出る「出エジプト記」の記述も事実かは定かでないが、民族の歴史が〈神の計画〉によって進むという思想を氏はそこに読み取る。
後に〈モーセの律法〉として確立するユダヤ教の厳格な生活規範も、バビロン捕囚やローマ帝国侵攻後の民族離散(ディアスポラ)等、歴史に翻弄される中で信仰の中核になっていくのだ。
「試練を与えられてもなお彼らが神を信じ続けるのは、神の計画だからとしか言い様がない。例えばアブラハムの息子イサクの犠牲譚は、キリストが十字架にかけられることと対になっており、『人類の原罪を負って磔(はりつけ)になった神の子イエス』というキリスト教を支える物語の伏線となっていきます」
〈パウロがいなければ、キリスト教はなかった。キリスト教がなければ、私たちの知ってる歴史は、いまあるようではなかった〉とある。実はキリスト教をキリスト教にしたのは、イエスというより使徒パウロであり、新約聖書「ローマ人への手紙」を読む第五講はまさに歴史的大転換を目の当たりにできる本書の核心だろう。
「彼はローマ市民権も持つユダヤ人のパリサイ派出身で、当時異端だったキリスト教を迫害する側にいた人物。だがイエスの弟子たちは、実は母マリアから狂人扱いされた異端児を救世主と頑なに信じ、パウロは彼らの強さに逆に心打たれる。彼自身は恐らく何らかのコンプレックスを抱えていたと思われ、その鬱屈が後の劇的な転向へと繋がる」