ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、一般的には実現しなかった“世紀の一戦”として認識されている馬場と猪木のシングル戦について、若手時代に行なった全16試合の軌跡を辿る。
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ジャイアント馬場とアントニオ猪木のシングルマッチは、昭和36年5月から6月にかけて6回、昭和38年4月から10月にかけて10回、合計16回行なわれていた。
両者の初対決が実現したのは、日本プロレスの“春の本場所”『第3回ワールド大リーグ戦』開催中の昭和36年5月25日、場所は富山市立体育館。馬場は23歳、猪木はまだ18歳だった。
前座の15分1本勝負として行なわれたシングルマッチは、馬場が10分0秒、フルネルソン(当時の表記は羽交い絞め)で猪木からギブアップを奪った。
長身の馬場が猪木の背後にまわり、長い腕を猪木の両脇から差し込み、大きな両手でクラッチを握りながら、猪木の後頭部を上から押さえつけ、猪木がもがき苦しんでいるシーンを想像してみるとおもしろい。
2度目の対戦は、それから2日後の5月27日(岐阜・岐阜市民センター)に行なわれ、馬場がボストンクラブ(逆エビ固め)で猪木からギブアップ勝ちを収めた。この試合では、ファイトタイムが10分から5分30秒へ半分に“短縮”されている点が非常に興味深い。
3回目から6回目の対戦は四国、九州巡業中の6月10日(徳島・徳島市民会館)、6月16日(福岡・八幡市黒崎安川体育館)、6月20日(大分・別府市営温泉プール)、リーグ戦終盤戦の6月28日(大阪・大阪府立体育会館)に行なわれ、それぞれ9分から11分の試合時間で馬場がフォール勝ちした。