ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、プレーイング・マネージャーのフレッド・アトキンスと合流した馬場の2回目の長期アメリカ遠征の足跡を追う。
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馬場が日本を離れてから2か月後の昭和38年12月15日、力道山が死去した。馬場が訃報を耳にしたのはそれから2日後で、日本に滞在中だったグレート東郷からアトキンスに電話が入り、馬場はアトキンスから、その知らせを受けた。日本プロレス協会関係者からは、馬場への連絡はなかったという。
馬場がすぐに帰国の途につかなかった理由については、アトキンスが「東郷がすぐ日本から戻ってくる。東郷と相談しろ」とアドバイスしたためとされる。
一方、日本では力道山の突然の死からわずか2日後、日本プロレス協会の新体制が発足、東郷に対し“絶縁状”を突きつけていた。
日本から馬場への連絡はすべて東郷-アトキンス経由だったから、馬場は不安を抱えながらも予定通りにスケジュールを消化しつつ、昭和39年の新年―海外での3度目の正月―をカナダで迎えたのだった。
昭和39年2月から3月にかけて、馬場はNWA、WWWF(現在のWWE)、WWAの米メジャー3団体の世界王座に連続挑戦という快挙を果たす。
NWA世界王座は前年の昭和38年1月、B・ロジャースから“鉄人”ルー・テーズに移動。馬場は2月8日(デトロイト)と2月15日(シンシナティ)、テーズの王座に連続挑戦し、敗れはしたが両興行とも1万人クラスの観衆を動員した。