ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、“人間風車”ビル・ロビンソンをめぐる、馬場と猪木の闘いをお送りする。
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ジャイアント馬場とアントニオ猪木は、闘わずに闘いつづけた。
いささか抽象的な表現になってしまうが、昭和50年代の馬場と猪木は、リング上では一度も相まみえることなく──プロレスラーとしても、プロモーターとしても──その“実力”をプロレスファンのイマジネーションに訴えかけた。
少年ファンは、馬場と猪木の動向からオトナの社会の仕組みのようなものを観察し、目の肥えたマニア層は“実力”にもさまざまな定義があることを学んだ。
猪木とロビンソンの一騎打ちは、猪木ファン、新日本プロレスファンにとっては“実力世界一決定戦”をイメージさせる闘いだった。
60分3本勝負で争われたNWF世界ヘビー級選手権は、1本目をロビンソンが42分53秒、逆さ押さえ込みで先制。2本目は16分19秒、猪木が卍固めで返し、1-1のイーブン。残り時間48秒でスタートした3本目は、そのままタイムアップ。
時間切れのドローで、猪木が王座防衛に成功した。
この試合は、猪木信者だけでなく、多くのプロレスファンがそのテクニックの攻防に酔いしれ、現在もなお語り継がれる名勝負のなかの名勝負となった。
しかし、ロビンソンが新日本プロレスのリングに上がったのはこの時だけで、翌昭和51年には、ライバル団体の全日本プロレスと契約した。
これも“夢の対決”としてプロデュースされた馬場対ロビンソンのPWFヘビー級選手権(60分3本勝負)は、意外にも2-1のスコアで馬場の完勝に終わった。
1本目はアトミックドロップ、河津落とし、バックドロップの大技ラッシュをかけた馬場が9分24秒、ロビンソンをフォール。
2本目は、ワンハンド・バックブリーカーから逆片エビ固めで6分8秒、ロビンソンのギブアップ勝ち。
3本目は、馬場がここぞという大一番にしか使わない“よそいき”のジャンピング・ネックブリーカーで5分45秒、ロビンソンを体固めでフォールした。
決勝の3本目のフォールが“片エビ固め”ではなく、ロビンソンを大の字に寝かせての“体固め”だったところが馬場の完勝モードを強く印象づけた。