当時のやり取りを、荒井氏は女性セブンにこう述懐していた。
「自分も熱くなってきてさ。いっちょやってみるか! ってんで、台東区内に芝居小屋を建てられる広い土地を探したんだけど、なかなか見つからない。難渋してたら、当の勘三郎さんが言うんだ。“ねぇ、テントを使うっていうのはどうかな?”って。一発で光が見えたよ」
小屋を一から建てるのではなく、テントにすれば場所を取らず認可も下りやすい。荒井氏は区役所や浅草観光連盟とかけ合い、足かけ4年、ようやく全ての許諾を得た。確保した土地は隅田公園敷地内、待乳山聖天(まつちやましょうでん)の目の前。2000年11月、定員800名の芝居小屋が完成した。「平成中村座」が誕生した瞬間だった。
公演初日は小さな小屋に溢れんばかりの観客が並び、報道陣も殺到した。勘三郎が選んだ演目は、聖天様の境内に勝手に住み着いた坊主の話、『法界坊』だった。荒井氏と勘三郎が共に作り上げた平成中村座の第一回公演は、歌舞伎ファンに語り継がれる伝説となっている。
以後、平成中村座は大阪、名古屋、ニューヨーク、ベルリンと国内外を転々とし、現在まで計21公演をすべて成功させている。
勘三郎の最後の公演となったのも平成中村座だった。2012年5月、同公演で勘三郎が演じたのは、町火消しと力士の乱闘を描いた『め組の喧嘩』。荒井氏が提案した演目だった。
荒井氏の功績は平成中村座の復活にとどまらない。中村屋と並ぶ名門、「成田屋」とも懇意にしていた荒井氏は、大正時代の浅草に建立され、戦中に金属類回収のため供出させられた九代目市川團十郎の銅像再建にも奔走した。彼の努力の甲斐もあって、1986年11月、浅草寺の境内に九代目團十郎が「元禄見得」を切る勇壮な銅像が完成した。
「1991年以降、赤ちゃんの泣き声の大きさを競う『泣き相撲』が毎年浅草寺で開催されていますが、あれも荒井さんの発案です。今、浅草に残っている伝統文化は、ほとんど彼が守ってきたものなのです」(浅草観光連盟会長の冨士滋美氏)
※女性セブン2016年3月17日号