欧文の表題には「JESUS WALKING ON THE WATER」とあり、評伝の作者ネイサンはキリストが湖上を歩いたとされる奇蹟にナサニエルの伝説をなぞらえている。
〈イエスは世界に失望した人々の希望であり、生きるよすがだった〉
〈ナサニエル・ヘイレンという若者もしかりである。彼が母親を殺したという事実も、彼の神格化とけっして無関係ではない。黒騎士の存在は、人間はだれしも罪を背負っており、その罪はきちんと償うことができるのだという人々の願望を反映しているのだ〉
生きるために人を食らい、それでも神に愛されたいと願う人々から救世主に祀り上げられたナサニエルは、実際はどんな生い立ちを持ち、なぜ母を殺したのか。事実を追うネイサン自身、女性を監禁して生きたまま火を放ち、自慰に耽った牧師の11人目の被害者として妻を失っていた。標的を追い南部や西部の現実を目の当たりにし、飢えを満たすための殺人には真理すら覚えた彼も、牧師の性癖に感じるのは不条理でしかない。
「要は文明が崩壊した世界を舞台に、我々が絶対だと信じている価値観を相対化してみたかったんです。
例えばナサニエルが刑務所で出会うレヴンワースは、映画にもなった伝説の食人鬼ですが、文明社会で悪魔扱いされた存在が、状況次第では英雄にだってなりかねない。同じように一介の犯罪者に過ぎないナサニエルの罪が人々を罪の意識から救い、2人が救世主と使徒のような形で伝説化される危うさが説得力をもつためにも、このフィクションにしてノンフィクション的な文体はピッタリでした」
目的はあくまで相対化にあり、富裕層の多くが装着する次世代型情報検索端末〈VB義眼〉等のSF的小道具も、「22世紀なので仕方なく」考えたという。
「僕はスマホどころか携帯電話も持たないし、終末の訪れ方も惑星衝突とか核の冬とか、陳腐なものしか思いつかない(笑い)。
でも本書にはそれで十分で、終末物の映画などが好きなのも、自分の出自もあって絶対的価値に対する懐疑が人一倍強いからだと思う。僕は台湾で生まれ、日本に40年以上住む自分を、未だ台湾人とも日本人とも言い切れずにいる。
もちろん山東省出身の反共戦士だった祖父のように大陸人でもない。ところが社会的には立場を明確にしろと求められることも多く、違和感と相対化が自分の作品を貫くテーマかもしれないと、実は本書を書いて気づいたんです」