鶴光のひとつのスタイルは、講釈を落語にするというものだ。たとえば、新宿末廣亭の6月興行では、大阪の講釈師・旭堂南鱗の「仇の道連れ」を自分でアレンジした落語を初披露した。
「講釈師のテープを聞いて自分で書き起こし、書いたものを10日ぐらいで覚えました。松鶴師匠の教えで、全体をおおまかに覚えたあと、細かいところを押さえていく。きっちり一言一句覚えていくと、高座で詰まった時に慌てて大変だから。でも、新しいネタをどんどん作っていけるわけで、頭はまだまだ大丈夫です(笑い)」
上方落語に真打制度はないが、鶴光は1990年に入会した東京の落語芸術協会から、「真打上方」という唯一無二の階級が与えられ、主任(トリ)も務める。追い求めるのは、東京人や非関西人が決して会得できない上方落語の真髄だ。鶴光はその話術の利を生かして、ひとり東京で戦ってきた。「戦争も兵隊が多いほうが勝ちやし、せっかく上方枠を作ってくれたんやから」と弟子も7名に増やし、上方落語を伝承し、広めようとしている。
現在、鶴光が抱えるネタは100本ほどだが、年齢やスタイルに合わなくなって手放すネタ、新たに加えるネタもあって、なおも変化を続けている。68歳の笑福亭鶴光はいま、身心ともに最も充実した時期を迎えている。
「落語家で一番ええのは、60から70歳。まだやったことのない怪談噺にも挑戦したいし、人情噺は『ラーメン屋』一本しかないので増やしたい。まだまだやるべきことはたくさん残っている。落語家にはあがりがないんですよ」
◆しょうふくてい・つるこ/1948年、大阪府生まれ。上方落語協会会員、落語芸術協会「真打上方」。1967年に六代目笑福亭松鶴に入門。1974年から11年9か月続いた深夜放送『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』で絶大な人気を誇り、その後はニッポン放送『鶴光の噂のゴールデンアワー』のパーソナリティを16年間務めた。東京を拠点に上方落語の発展に尽くし、テレビ・ラジオなどでも幅広く活躍。
撮影/初沢亜利 取材・文/一志治夫
※週刊ポスト2016年9月2日号