その背景には、これまで「仏敵」だった信長を「比叡山の恩人」と言い出した人物の登場があった。天台宗大僧正・比叡山長臈(ちょうろう)の小林隆彰氏である。
1970年、延暦寺副執行だった小林氏は比叡山発行の『比叡山時報』で、「新生比叡は信長に功あり」と信長仏敵論に異を唱えた。著書『比叡の心』には、こう記されている。
〈信長にも焼くべき理屈があっただろうし、比叡山側にも焼かれる原因があった。いたずらに信長を憎むのは仏の道に反する〉
小林氏が主張する延暦寺側の焼かれる原因について、前出の高野氏が解説する。
「最澄が開山した当初の比叡山は『人はみな仏になる』という法華経の教えを広めるべく人材育成に力を入れ、親鸞、日蓮など、多くの名僧を輩出した。
しかし、平安中期以降、僧たちは権益を要求し、通らなければ日吉神社の神輿を京都にかつぎおろして強訴するなど、その振る舞いは尊大になっていった。朝廷も手を出せず、白河法皇にして『鴨川の流れと山法師、双六の賽は意のままにならず』と嘆かせた」
戦国時代に入ると比叡山の腐敗は更なるものとなる。「衆徒たちが領地からの年貢を元手に近隣の村人や農民たちに高利貸しを行なったり、足利将軍家の不安に付け込み、幕府を脅かして銭を出させるなど、守銭奴に成り下がった。金を得た僧たちは山を降り、坂本の町で魚鳥を食し、酒を呑み、遊女を買った。
その状況にあっても、延暦寺の宗教的権威は少しも衰えず、日本仏教界の頂点に位置していた」(同前)
続けて前出の『比叡の心』で、こう触れている。
〈天下が乱れ切り、その一翼を担った比叡山は結局は、焼かれる運命にあったように思うのである。叡山僧が開祖大師のお心を踏みにじって来た仏罰に素直に頭を下げねばならぬ〉
だが、小林氏が「信長恩人論」を掲げると、当然のように天台宗の学者や信徒からは反発の声が相次いだ。