永氏は、「これが東京のお笑いだ」とナイツのことを高く評価していた。中でも「言い間違い」のネタがことのほか好きだったという。
「そう言われても、そんなに接点がなかったんで、ピンと来ないんですけどね」(塙)
「永さんのラジオ番組にゲストで出たりしましたが、我々からしたら歴史上の人物ですからね。すごすぎて実感が湧きませんでした」(土屋)
と、どちらも永氏の評価に浮かれない。この淡々、飄々としたスタンスこそ、ナイツの味である。
ナイツの主戦場は、東京・浅草だ。浅草フランス座演芸場東洋館──浅草公園六区にあり、長い間ストリップ劇場として有名だったところだ。無名時代の井上ひさしが劇場座付き作者を務め、若かりし頃のツービートが舞台に立った場所でもある。
現在は、都内唯一のいろもの寄席であり、青空球児・好児や昭和のいる・こいるといったベテランから若手まで、「漫才協会」の面々が毎日舞台に立っている。そしてこの「漫才協会」の中心メンバーが、ナイツなのだ。実際、塙は副会長、土屋は理事の要職にある。
「といっても、最初は浅草に何の思い入れもなかったし……」(塙)
「まあ、僕ら、浅草に何の関係もないですからね」(土屋)
千葉生まれ、佐賀育ちの塙。東京出身だが浅草に縁のない土屋。2人は東京の大学の落語研究会の先輩・後輩という間柄で、芸人になりたかった先輩の塙が、大学時代に土屋に声をかけたのが、コンビの始まりだ。
現在は、内海桂子師匠らが所属する事務所の一員だが、それは、土屋の母が同事務所の演歌歌手だったというツテを頼ってのもの。
事務所の当時の社長から桂子師匠の弟子になるよう命じられ、「きみたちは、浅草のほうが向いている」と、半ば強制的に浅草の舞台に立たされた。今も昔もスーツ姿で舞台に立つが、桂子師匠から最初に「言葉遣いと格好だけは、きちんとしなさい」と注意を受けたから。
「始めは、浅草も東洋館もイヤイヤだったんですよ」(塙)
「やっぱり渋谷とかでワーキャー言われたいじゃないですか」(土屋)