もし家族のサポートがあれば、あなたは別の選択をしていたんじゃないですか? サビナが、迷わずに即答する。
「ありえません。なぜなら、私自身がもう、この障害に耐えられないから」
すぐに、ヘルマンが口を挟む。
「彼女に十分なサポートがなかった訳ではないんだ。22年ですよ。彼女は、22年間、この状態で生きてきたんだ」
顔が上下に揺れ続けるサビナは、さらにため息まじりの声で、こう話す。
「24時間体制のケアには莫大なお金がかかったわ。でもそれは、私を生かし続けるためだけのケアでしかない」
全身麻痺の彼女は、世界標準からすると、安楽死には値しない。なぜなら、末期症状を持たず、精神的な痛みは別としても肉体的に耐え難い痛みを伴っていないからだ。条件として揃っているのは、回復の見込みがないことと、本人の意思が確認できることか。独断で死に臨む彼女に、私は虚しさのあまり「まだ生きられる」と、吐き捨てた。
しかし、私を悩ませる部分も実はある。英国やドイツのように安楽死を認めない国々では、サビナのような患者が死への願望を公に口にすると、精神科病院に送られる。それが何を意味するかは、ベルギーのビンケ家(*2)を見てきて知っている。そして、スペインのラモナの言葉も浮かんでくる。
【*2/連載第6回で紹介。ベルギー人のエディット・ビンケは、若くして精神病を患い、幾度も死を望むが、当時は同国に精神病患者の安楽死が認められていなかった。結局、彼女は2011年3月、精神科病棟で自殺。この事件が同国で報じられ、精神的な病も、安楽死要件に含めることとなった】
「(死なせないのは)家族のエゴだ」
どちらが正しいのか、私の思考が支離滅裂になる。闘病当初、ベッドの中で、彼女は毎日、旅を想起したという。
「タイと南アフリカに行きたかったんです。知らない人たちにたくさん会って、話をして、経験を重ねたかったわ」
しかし、その夢が現実にならないことを知り、10年ほど前から別の夢を抱く安楽死を叶えることだ。2016年4月、サビナはついに「ライフサークル」に辿り着く。私は最後にサビナに訊く。あなたが死んで、残されるヘルマンに何を期待しますか?
「期待することはありません。希望を抱いて生きてほしいと思います」
その言葉を聞いたヘルマンが、涙目になる。それでも、サビナの顔をしっかりと見つめ、彼は呟く。
「君を愛している。君を失いはするが、愛は失わない」
その瞬間、サビナは「あー」と泣き崩れる。涙で真っ赤な目を、わずかに動く右手でティッシュを取り、頭を屈めて拭った。これ以上、時間を奪ってはならない。私は部屋を後にした。