「陣屋(神奈川県・鶴巻温泉)」は将棋の棋戦でもよくつかう宿で、お昼はカレーライスが定番。通常メニューにはないもので、タイトル戦のときにだけふるまわれる裏メニューだ。チキンとビーフが用意され、好みで選べ、合掛けにすることもできる。女将が「将棋の羽生善治さんは先日、チキンを選ばれました」などと紹介しながら配膳される。
井山裕太六冠は、お寿司や海鮮丼などが好み。挑戦手合は全国の温泉地などで催されるので、海鮮が名物のところも多い。麺類か寿司を注文することが多く、井山さんがカレーや松花堂弁当などを選ぶのはごく稀だ。
井山さんが19歳で初めて名人に挑戦した第33期第1局(2008年9月4、5日、青森市・ホテル青森)、手合の前夜。記者は主催紙の仕事で井山さんをエスコートしつつ、ふたりで食事をしたことがある。
井山さんが刺身などを注文するのを見て、少し驚いた。これまで食事をしてきた棋士らは、重要な対局前は生ものを控えたり、油っこい料理など重いものは避けていたからだ。
それを井山さんにたずねると、「全然、気にしません」とモリモリ食べていた。次の日、打ち掛けの晩はフランス料理のフルコースを、デザートを少し残しただけでほぼ完食。緊張してもおかしくない状況で、しっかり食べられるとは、これは大物だと感じたものだった。
第39期名人戦第3局(2014年9月25、26日)は札幌市の「第一寶亭留 翠山亭倶楽部定山渓」で打たれた。そこで井山名人は、お昼に天ぷらそばを注文。その天ぷらのエビがすごかった。宿のサービスでボタンエビが3匹も乗っている豪華版だったのだ。
われわれ記者やスタッフはふつう(?)の天ぷらそばだったので、対局終了後、井山さんに「ボタンエビの天ぷら、どうでしたか?」とわざわざ聞いてみた。すると「天ぷら、残しちゃったんですよね」という返事。ああ、そのエビ、スタッフにまわしてくれれば……とみなで嘆いた。
2016年、井山七冠から名人を奪った高尾紳路名人は、対局前日に鉄板焼きのフルコースを完食するなど、決して小食ではない。高尾さんが注文したお昼ご飯、そばやうどんなどが写真でアップされているが、実は対局中の昼はほとんど食べていないと告白してくれた。高尾さんは「ファンのみなさんがネット記事を楽しみにしているので、何か頼んだほうがいいかと……」。
一方、名人戦第29期の挑戦者・河野臨九段は棋士の中では珍しくよく食べることで有名だ。第6局(2014年10月29、30日)は長野県の「上諏訪温泉 油屋旅館」。この旅館は初めての番碁開催だった。
河野さんはおやつに長野名物・リンゴの盛り合わせを頼んだ。
時間になり、仲居さんがおやつを運んでくると、なんと「右がシナノゴールド、左が紅玉……」と、リンゴの説明を始めたのだ。対局室の静寂の中、対局者と記録係以外の声が響いたのは、前代未聞。
さらにその仲居さん、リンゴが載ったお盆を河野さんの前を通過させながら、河野さんの左手側から右手側に置いたのだ。多分、対局者と盤面の間に、物体が通り過ぎたのは、囲碁史上初のことだったろう。目の当たりにした記録係(本木克弥八段)と記者は、凍り付いた。
でも、対局者はおちついたものだった。ひと昔前のとっても偉い棋士だったら、どんなことになっていたか。考えただけでもそら恐ろしい。井山さん、河野さんでありがたかったと、思わずにはいられない場面だった。
対局時の棋士の心理状態を知るうえでも興味深い「勝負めし」。これからも数々の名勝負や人間ドラマとともに語り継がれていくことだろう。