「鯨部隊の皆は、もう内地の土を踏めると思っていません。これがハチとの今生の別れだ、と。“おれたちが天国でおまえを見守ってやるからな”という気持ちで最後の時を過ごしたのです」(門田氏)
成岡は自著『兵隊と豹』の中で、ハチとの別れについて、こう綴っている。
〈私はしつかりと彼を抱きしめました。思はず彼の顔にぴつたりと頬をつけると、涙が湧いて來て、あとからあとからと流れおちました。ハチ公も私の氣持ちが分かるのかじつと私の膝にもたれかゝつて、うなだれていました〉
仲間たちと別れ、はるばる日本にたどり着いたハチを待っていたのは、空前の“ハチブーム”だった。「鯨部隊のマスコット」としてすでに新聞各紙で報じられており、上野動物園に登場するや、人が殺到したのである。
当時の朝日新聞(1942年6月2日夕刊)を読むと、ハチの人気が如実にわかる。
〈上野動物園で初お目見得した雄豹の子「ハチ公」が然坊ちやん嬢ちやんの人気を掻つさらつてしまつた、この人懐つこい豹の子はそれもそのはず中支戦線で活躍中の皇軍の兵隊さんの手に捕らへられたのが生後二、三箇月のほんの赤ん坊時代、以來満二歳のけふまで部隊のマスコットとして可愛がられた〉
軍服を着た客が来ると懐かしさで近寄っていくこともあり、ハチの脳裏から鯨部隊と過ごした日々が消えることはなかった。だが、その後ハチを待っていたのは、あまりにむごい仕打ちだった。
◆ハチは疑いもせず餌を口に入れた
1943年8月16日、前出の福田園長代理が東京都庁に呼び出された。公園緑地課長の口から告げられたのは、「猛獣殺処分」に関する概要。単刀直入にいえば、「動物園の猛獣を毒殺せよ」との命令だった。
理由は前述した食糧難に加え、“非常時の住民の安全”が挙げられていた。戦時下の動物の扱いについて研究している、もり動物クリニックの森徹士院長が語る。
「発端となったのは、1941年に上野動物公園が陸軍東部軍司令部の要請に応じて作成した『動物園非常処置要綱』です。空襲など非常時における猛獣対策をまとめたものですが、例えば動物園が爆撃され、檻が破壊された場合、猛獣が街中をうろつくことになりかねない。その想定をした上で、殺処分を含めた対応マニュアルを作っておいたのです。
実行に移す直接のきっかけは、戦況の悪化でしょう。ただ、食糧難や空襲時の“予防策”以上に、空襲の覚悟と心構えを都民並び国民に喚起する側面もあったはずです。“われわれは今これほど逼迫した情勢なのだ”と。それを伝えるために、何の罪もない動物を殺していったのです。飼育員たちもつらかったでしょう」