勉学に励み、将来は有名大学に進学してほしいと願っていた菅生さんだが、転機はまもなく訪れた。中学1年生の春、菅田が母親と一緒に福山雅治のライブに行ったときのこと。
「帰宅して感想を聞いたら、『福山さん、すごく気持ちよさそうだった』と答えたんです。普通の中学生なら、100人中100人が『福山さん格好よかった』『歌がうまかった』と答えるでしょう。『気持ちよさそうだった』という言葉は、ステージ上の彼と自分を重ね合わせないと出てこない。この子は将来舞台に立つ仕事をするかもしれない、と思い始めました」
以降、菅生さんは菅田に対し、舞台やライブ、漫才まで、ことあるごとに生の演劇を見せることにこだわった。
「それが何よりも将来の財産になると思ったからです。私自身、学生時代は東映の太秦撮影所で時代劇のエキストラ出演のアルバイトをしていましたし、演劇が遠い世界ではありませんでした。撮影現場の見学にもしょっちゅう長男を連れていったし、映画もたくさん見に行った。当時100万円以上した大型液晶テレビを購入し、『フォレスト・ガンプ』や『スタンド・バイ・ミー』などの名作を大画面で何度も見せました」
芝居や映画を見た後、必ず子供たちに感想を聞くようにしていた菅生さん。ここでも菅田は、「面白かった」といったありきたりな表現は絶対にしなかったという。
「どのシーンがなぜよかったか、深く考察して言葉にするんです。この頃には、長男は将来的に役者になるという確信がありました。本人もまた、演技への興味を強く持ち始めていました」
校内一のイケメンとして女性人気も抜群だった菅田のもとには、スカウトも多かった。しかし、事務所選びからオーディション参加まで、すべて菅生さんが主導した。
「とりあえず芸能界に入ればいい、というスタンスではなく、『役者になる』という明確な目標を持っていましたから。知人の芸能関係者には何度も相談したし、その道につながりそうな自分の人脈はフル稼働しました。選んだ事務所で長男の人生が変わるかもしれないのですから、ステージパパと言われようとも父親としてとことん前に出ました。長男が高校1年生の時に今の所属事務所に出合ったのですが、面談には私も同席しました。長男以上に私がしゃべってしまい、『お父さんは黙っていてください』とたしなめられたほどです(苦笑い)」
晴れて事務所に所属後、大阪の進学校から東京に転校した菅田を、家族は涙ながらに見送ったそうだ。
「特に弟たちは泣きじゃくっていました。三男はまだ小学3年生でしたから。『兄ちゃんがいなくなってもうた』って、学校にいても何をしても、ふとした時に涙が止まらなくなるんです。あとで聞いたら、妻も最初の頃はお風呂でよう泣いていたそうです。まだ15才の子供が親元を離れるのですから、つらかったはずです」
※女性セブン2018年1月1日号