「ちょうど取材を始めたのが安保法制の議論が沸騰した2015年夏で、明石さんたちにすれば、『20年前と何も変わってないじゃないか』という虚しさもあったと思う。日本は湾岸戦争の時に人は出さずに金を出し、〈小切手外交〉と非難されたトラウマから、カンボジアで初の人的貢献に踏み切る。
だがPKOはむしろ危険を前提として行うものなのだと、率直な議論を望む声は現場にはあった。平和、平和と口で言うだけでは日本は孤立するという柳井俊二・外務省条約局長の信念はある意味ブレておらず、何がどう危険なのか、今なお検証すらされていない現状を憂うからこそ、皆さん、覚悟をもって証言してくださったのだと思います」
1991年10月、20年以上内戦が続いていたカンボジアではポル・ポト派ら4派が和平協定を締結し、UNTACの下、1993年5月の総選挙に向け史上最大のPKOが実施された。が、日本ではPKO協力法の審議を巡り国会が紛糾。各国の活動開始から3か月遅れで可決に至るが、議論の多くは自衛隊派遣の是非に費やされた。
そうこうして1992年10月、警察庁キャリアの山崎以下、文民警察隊75名は成田を出発。ただでさえ出発が遅れる中、準備は万端とは言えず、山崎は書く。
〈不毛な“霞が関の論理”が、われわれの派遣中のさまざまな懸案の処理においても顔を出し、私だけでなく、隊員たちの精神衛生を損ねることが多かった〉
現にこの遅れは大きかった。UNTACが提示した任務地にはポル・ポト派が武装解除を拒むタイ国境の危険地帯アンピルも含まれ、自衛隊のキャンプ地タケオとは雲泥の差。文民警察はまたもわりを食うが、山崎はこの提示を呑み、アンピル隊の隊長にタイ大使館で勤務経験もある神奈川県警川野邊寛警部を指名する。
「高田さんを目の前で亡くし、ご自分も重傷を負った川野邊さんは、最も消息が掴めなかった一人でした。何とか人づてに連絡を取ると、あの時のことは家族にも話してないし、話しても誰も理解できないだろうと。僕らにできたのは彼らが抱えてきた事実を受け止め、点から線、線から面に繋げていくことくらいでした」