「石原莞爾『世界最終戦論』のように何をどう書き換えたか、原文や記録があればまだいい。でも忖度や自主規制では記録も残らないし、現在や後世の読書にも影響するのが、一番怖いんです」
この頃、大手新聞社との間には直通電話が引かれ、日米開戦後は新聞社の統合にも発展するが、必ずしも現場の検閲官が〈国家全体の意志を代弁していたわけではなかった〉と氏は書く。
例えば毎日新聞の某記者が〈竹槍では間に合はぬ〉と海軍予算の増強を訴えた〈竹槍事件〉では、内務省が通したその記事を海軍は絶賛するが、陸軍は記者の〈懲罰召集〉に動き、彼と同郷同世代の250名までが召集された。また朝日が掲載した「戦時宰相論」に東条首相が激怒したとして官邸側が発禁を命じた際も、面目を潰された内務省では回収指示をわざと遅らせて一矢報い、介入の〈防波堤〉になることさえあった。
「現に戦中の弾圧事件には現代にも通じる〈セクショナリズム〉が絡んだ事例が多く、そこで誰が何をしたかを具体的に見ていく方が、教訓は多いはずなんです。
戦前批判も美化も、軍部=諸悪の根源などといった虚構頼み。私はどの党派にも属さずに戦前観のバージョンアップを図りたいんです。そうでないと既存の立場にスッと取り込まれてしまう。特に今は右なら右、左は左と政治的断裂が起き、検閲の話も、ある人はオタク的、ある人は政治的にしか見ようとしませんが、そもそも面白くて政治的で複雑なのが人間でしょう?