他人を追いつめて自殺させる自殺教唆や無理心中のような場合は一種の殺人である。これが犯罪となるのも納得できる。しかし、自殺者に共鳴した介助者を罰する理由は何だろうか。唯一考えられるのは、自殺は自分の生命を処断することだから許されもするが、幇助は他人の生命を殺めることになるから許されない、という理由だ。当然ながら、かなり苦しい理由である。
自殺幇助罪の孕む問題は、一九七〇年の三島由紀夫事件の裁判でも議論された。三島を介錯した森田必勝は、自らも三島に殉じて切腹したため訴追にはならなかった。その森田を介錯した古賀浩靖は自殺幇助の罪に問われた。古賀は日本の武士の作法であると主張したものの、認められなかった。私は三島の思想にも行動にも賛成しないが、この主張には賛成する。
自殺幇助罪は、平凡な庶民の“終活”にも関係してくる。安楽死である。現在日本で合法なのは、死が目前に迫り苦痛も甚しい場合に延命治療を拒否する尊厳死だけである。それ以上の安楽死は認められていない。それでも安楽死を望むなら、体力や手段の関係上、他人の協力すなわち幇助者が必要となる。しかし、幇助者には大きな迷惑がかかる。私自身、老親の看取りに際し大いに悩まされ、次は自分の番だと実感した。
三島由紀夫が中央公論新人賞の選考委員だった時、強い衝撃を受けたのが深沢七郎の『楢山節考』である。近代的生命観とは無縁の世界に住む老母の自決を描いた作品であった。生命絶対主義に暗い一撃を与えたのだ。
●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。著書に『バカにつける薬』『つぎはぎ仏教入門』『真実の名古屋論』など多数。
※週刊ポスト2018年5月18日号