オシムは脳梗塞で倒れた身体にむち打ち、それぞれの民族派の最高権力者たちに説得を重ねた。セルビア人共和国大統領のミロラド・ドディックに会いに行ったときは、さすがのオシムに対しても首都サラエボで批判の声が上がった。「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」の二つの民族は「セルビア人共和国」をセルビア人による民族浄化によって強引に作られた侵略支配地域と見ている。侵略者に対して一緒にやろうと請願に行くとは、何という裏切り行為かというわけである。
他方「セルビア人共和国」のセルビア人はそもそもボスニアのユーゴからの独立をセルビア人の承諾の無いままに作られた憲法違反の建国と考えている。ドディック大統領はロシアのプーチン大統領の後ろ盾を得て、ボスニアから分離してセルビア本国との合併を公約に掲げて宣言しており、サラエボからの使者を「外国人」としてずっと軽視していた。しかし、ドディックはオシムの説得に応じた。「イヴァン(オシム)は私に来てくれた。それが何より大きかった」(ドディック)
2011年5月26日に開かれたボスニアサッカー協会の総会では会長一元化のための規約改定が満場一致で決議された。こうしてボスニアは国際舞台に再び復帰することができ、盛り上がったモチベーションのままに予選を勝ち抜いてW杯ブラジル大会に出場を決めたのである。
EUや欧州議会をはじめとする国際的な調整機関が何度もトライしては破たんして来たことをオシムはついに成し遂げたのである。
統一に向けて何が決め手であったのかをブラジル大会の直前に聞くと、オシムはこう言った。「まず信じることだ。相手をモンスターだと思ってしまうと自分もモンスターになってしまう」
すべてはそこにあるのだ。W杯ロシア大会が開幕する5日前の6月9日には、旧ユーゴに属したコソボサッカー協会のヴォークリ会長が急逝したとニュースが飛び込んできた。彼もまたオシムの教え子であった。ユーゴ内で被差別の対象とされていたアルバニア人でありながら、「その選手がすぐれていたら、私はコソボのアルバニアで11人を選ぶ」というオシムの抜擢によってユーゴ代表で活躍し、才能を開花させた男である。
コソボも紛争を経てナショナリズムの台頭は激しいが、それでもオシムを慕うサッカー関係者がほとんどなのは、この振る舞いからである。属性から言えば、敵性にあたるボスニアのセルビア人であるサボ・ミロシェビッチ(現セルビアサッカー協会副会長)にも4月に会ったが、彼もパルチザン・ベオグラード時代に薫陶を受けたオシムへの感謝を何度も口にした(そのインタビューを文庫本に収録した)。
戦争で殺し合いをさせられた旧ユーゴのすべての民族の選手から今でもオシムがリスペクトを集めるのは、偏見や先入観で一切の排除をせず明確に態度で示し続けたことが大きい。そして1991年にユーゴ紛争が始まって現在に至るまで27年間一切ぶれていない長年の信頼の力である。
W杯初戦で日本代表はコロンビアに勝利した。とたんに西野監督を名将扱いし始めたマスコミにも驚く。コロンビア戦での勝因はハリルホジッチが提起していたデュエル(1対1)の数値が向上していることをあげて、ハリルの遺産でもあることをエビデンスから検証したメディアもある一方で、かような分析もせず、結果オーライでほんの2か月前のことをもはや記憶の彼方に葬ってしまったかのような報道には違和感を禁じえない。