物語の中で、佐藤夫婦にからんでいくのが茄子田夫婦。横柄な態度で命令口調、いつも上から目線のモラハラ夫・茄子田太郎(ユースケ・サンタマリア)と、夫に従属してきた専業主婦の綾子(木村多江)。しかし、綾子は真弓の夫・秀明(玉木宏)と不倫をすることで反撃を開始……まったくタイプの違う二組の夫婦のもつれ合いに、視聴者もハラハラドキドキ。
ところが残念なことに、結末へ向かうあたりでドラマの構造的な問題がはっきりと見えてしまったのです。最終回、根深い問題を抱えた二組の夫婦が「なぜか突然」狭いエレベーター内に閉じ込められる。いやがおうでも顔をつきあわせ本音で話をせねばならず、それによって解決の糸口が見出され……と、あまりにもご都合主義的な展開にはびっくり。そしてこのセリフ。
「お前のために変わるから。もしいつか一瞬でも、お前が俺を愛してくれたら、それで俺の人生は満点なんだ。綾子、帰ってこい。一緒にうちに帰ろう」
茄子田太郎のセリフは明らかにキャラブレ。もしそんなセリフを自分の妻を前にして言える人ならば、夫婦の問題なんて生じていないはずでは?
徹底的にモラハラな精神構造の人は、「自分に問題がある」ということ自体を自覚できない。「自分の判断は正しい」と信じこんでいるからこそ、専制君主のように振る舞えるわけで、そんな王様・茄子田が「変わる」ためには、ちょっとやそっとの話しあいや、妻の不倫程度の出来事では無理。思考回路とはクセのようなものだからすぐ元に戻る。
その回路を付け替えるには、いわば別人になるほどの崩壊的な出来事、衝撃がなければ難しい。ということで、短時間にガラリとキャラを変えた理由について説得力がもの足りなかった。
つまりこのドラマ、滑り出しの「入口戦略」は上々でしたが、「出口戦略」が甘かったのかも。ドラマとは構成的な創作物である以上、イクジットストラテジーは非常に大切ということでしょう。
●『モンテ・クリスト伯-華麗なる復讐-』(フジテレビ系)
大胆な翻案の妙を楽しまなければもったいない。原作はフランスの古典的小説『モンテ・クリスト伯』。それを日本のドラマで現代風にスライドさせた遊び心。こんな風に変えたのか、と発見の楽しさを教えてくれた。外から輸入したものを上手に「引用/応用」し翻案していく技法を、日本のものづくりでは「お家芸」と呼んできましたが、その力をドラマで展開させた新鮮な事例として、業界に刺激を与えたのではないでしょうか。