大阪の韓国総領事館の幹部に報告すると、ある人物を紹介された。それが柳川だった。会うなり柳川はいった。
「あなたのことは聞いています。これからはあなたの身は、ワシらが守りましょう」
1969年に柳川組を解散して以来、韓国政府との結びつきを深めていた柳川は、自然とKCIAとも関係を持つようになった。任侠出身の柳川は頼られ、Mのような協力者たちの身辺警護を託されるほどになっていた。
◆司馬遼太郎と意気投合
柳川はことあるごとに「あいつには手を出すな」と触れ回った。その大きな力によって、Mが争いごとに巻き込まれることはなくなった。恩義を感じたMは柳川の秘書となった。柳川のもとで、Mは在日社会の有力者や文化人の訪韓を実現させていく。Mから教えてもらった訪韓者の面々は、錚々たるものだったが、その中に一人、意外な名前があった。作家・司馬遼太郎である。
実は、司馬は韓国政府から要注意人物としてマークされていた。全斗煥政権による野党指導者の金大中への死刑判決に対する司馬の言動が問題視されたためだ。司馬は1980年11月に金大中の助命を嘆願する書簡を当時の首相鈴木善幸らに送ったばかりか、朝日新聞に次のコメントを寄せていた。
「私は他国の国内での政治事象について、とやかくいいたくありませんが、しかし、だれが見てもバランスを失したかたちで一人の政治家が殺されることについては、市井人としての憤りと当惑とやるせなさを感じます。もし(金大中が)死刑になれば、韓国はただの人間の常識が生きているはずの国際社会の一員である場から大きく後退せざるを得ないでしょう」(1980年11月4日付)