中曽根康弘一覧

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アイチ・森下安道伝 許永中は手提げ袋に現金1億円を入れて現れた
アイチ・森下安道伝 許永中は手提げ袋に現金1億円を入れて現れた
【連載『バブルの王様』第二部第4回】貸付総額1兆円超のノンバンク・アイチを率いた森下安道は、多くのバブル紳士たちと関わりを持つ。なかでも、「戦後最大の経済事件」と呼ばれるイトマン事件を引き起こす許永中との関係は、とりわけ濃密だった。『バブルの王様 アイチ森下安道伝』の第二部第4回、ノンフィクション作家・森功氏がレポートする。(文中敬称略)【写真】取り立ての厳しさから「マムシ」と呼ばれた森下安道氏 * * * 新東京国際空港(現・成田国際空港)は激しい市民闘争の末の1978年5月、千葉県房総半島の中心部にある内陸空港として生まれた。成田空港はそこから羽田に代わる日本の空の玄関と呼ばれ、コロナ前のピーク時の2018年には、4260万人が利用している。  1970年代前半からJALのオーダーメードツアーによる欧米旅行を恒例にしてきた森下安道も、羽田から成田に換えてここから世界に旅立った。アイチの秘書とともにヨーロッパやアメリカ、モナコ行きのファーストクラスに乗り込んだ。  バブル景気の始まった1980年代後半に入ると、アイチの大名旅行のメンバーには、武富士の武井保雄などのサラ金軍団ではない顔ぶれが加わった。その一人が許永中である。森下の話を元に、初めていっしょに欧州に向かったときの一幕を紹介する。 森下がアイチの幹部社員たちとともにファーストクラスのカウンターで待っていると、許が3人の秘書を従えて駆け寄ってきた。汗かきの禿げ頭に大粒の汗が光る。秘書はいずれも若く、男性が2人で女性が1人だ。そのうちの男性秘書が大きな手提げの紙袋を抱えていた。 「それは、いったい何かな」  森下が紙袋に視線を向けた。すると、許が答えた。 「森下会長、なにせ初めてなので多めに持って来ましてん。現金ですわ、1億ほどある思います」 折しも大阪港から韓国の釜山港までつないだ「大阪国際フェリー」を就航させた許は、謎の大阪出身の在日韓国人実業家として売り出し中だった。  森下との欧州旅行に際し、許が紙袋に詰めて持参した現金は、実際のところは7000万円ほどだったという。だが、海外への現金持ち出しは今も昔も外為法や関税法によって厳しく規制されている。現在の財務省のホームページにも〈一定額を超える現金等を携帯して出国・入国する場合には、事前に税関への届出が必要です。届出が必要とされるのは、次のような場合です〉としてこう記されている。〈携帯する次のものの合計額が100万円(北朝鮮を仕向地として輸出しようとする場合については10万円)相当額を超える場合現金(外国通貨を含む)小切手(旅行小切手を含む)約束手形有価証券携帯する金の地金(純度90%以上)の重量が1キログラムを超える場合〉  但し書きとしてこうある。 〈関税法第67条の規定により、支払手段等の輸出又は輸入について書面により申告を行い、その許可を受けているときは、上記届出はすでになされたものと取り扱われます〉 紙袋の現金を見て驚いたのは、森下をはじめとしたアイチの一行だ。数百万円なら税関に届け出をして持ち込めばいい。あるいは手分けして荷物の中に隠して持ち出すこともできなくはない。が、そのレベルの金額ではない。森下は言った。 「永中さんよ、いくら何でもそんなに現金を持ち出せないよ。税関に没収されるのがオチだから、運転手に持って帰らせる以外にないな」  現金の持ち込みに関して米国は比較的緩いが、欧州は厳しい。これまで書いてきた通り、森下は世界中の旅先で大きな買い物をしてきた。最初は現金だったが、1980年代に入るとクレジットカードが普及し、現地の買い物はすべてクレジットカードか、銀行送金による決済となった。現金で持ち込むのは、ホテル関係者やツアーガイドに弾んできた数百万円のチップくらいだ。現在はそのチップですらクレジットカード払いが主流となっているほど、欧米では現金が流通していない。日本から大金を持ち出して旅先で買い物の決済をすることはまずありえないが、許はそのあたりの事情に疎かったのかもしれない。 森下には逮捕、起訴歴こそあったが、銀行取引ができないわけではなく、クレジットカードも自由に使えた。森下は、アメリカン・エキスプレスの最上位のカードを携帯し、海外でさまざまなモノを買ってきた。  現在、最上位のアメックス・センチュリオン、通称「ブラックカード」ができたのは1999年だ。したがってバブルのこの時代は、1984年にできた「プラチナカード」がアメックスの最高ランクのカードだった。戦車や航空機でさえ買えるといわれる決済上限なしのブラックカードほどではないにしろ、1980年代後半のプラチナカードは、世界中の富裕層が使い、ステータスが与えられていた。億単位の買い物でも決済が可能だった。 許がクレジットカードを所有していなかったのか、そこは定かではないが、少なくともこの頃の許は現金主義だったのだろう。クレジットカードを持たないまま、森下とともに欧州に旅立ったという。最初の立ち寄り先はスイスのジュネーブだった。森下が苦笑交じりにこう語った。 「永中は時計集めが趣味なんですな。それで、向こうに行くと、まず時計を買いたいというので、案内したんだ。ところが、カードを持っていないというから困りました」 ジュネーブで立ち寄ったのが、高級ブランド「パテック」の店だ。許はそのなかでも最高級クラスの腕時計を買おうとした。日本円にして2500万円前後する代物である。だが、許の手もとには3人の秘書に手分けしてスイスに持ち込ませた数百万円分のフランしかない。 「(森下)会長、申し訳ありませんねんけど、立て替えといてもらえまへんか」  許がそう頼み込んだ。しかし森下はすぐにOKだとはいわない。1分近く考え込んでそばに控えていたアイチの秘書に命じた。 「おい、おまえのカードを貸してやれや。それで、日本に帰ったら、永中さんに現金を届けてもらえばええ」 金銭に関する森下の感覚は常人のそれではない。ただし、それは単なる吝嗇というのとも違う。自らのカードを使わなかったのは、それなりの理屈があった。時計の買い物となるとプライベートな金銭の貸し借りとなる。仮に支払いが滞ったとき、その2500万円程度の貸し付けを取り立てるのは憚られる。そのため、秘書にカード払いを頼んだのだという。一方、頼まれた秘書は肝を冷やした。 「私のカードなんて、そんなに使えませんよ」  そう断ろうとした。すると、森下が言った。 「無理かどうか、試しにやってみれ。落ちる(決済できる)と思うぞ」  不思議なことに一度に2500万円もの買い物が秘書のカードで決済できたという。その理由は簡単だ。 森下はこの頃、月のうち3週間を海外で過ごすほど渡航頻度が多かった。そこに同行する秘書たちも似たような暮らしぶりになる。と同時に、秘書たちが旅行費用の立て替え払いをする場面も少なくなかった。もとより立て替え費用は帰国後にアイチの経理部から返金されるが、クレジットカードの使用実績は飛躍的に増えた。そのため、カード決済金額の上限が格段に上がっていたのである。森下は言った。 「永中は義理堅いところがあるから、踏み倒すようなことはせんかったよ。為替の関係で2500万円にちょっと上乗せして2565万円を請求させたら、すぐに現金で持ってきた」 当時、アメックスではまだポイント制がなかったが、1990年代に入って制度が導入されると、秘書たちのカードにもあっという間に100万ポイント近くがたまった。ファーストクラスで欧州を5往復できるくらいのポイント数だったという。  もとより許が森下に同行したこのときの欧州行きは、単なる休暇ではなくビジネスだ。大きな目的は時計の購入ではなく、絵画の買い付けだった。アメリカやフランスでゴルフ場開発を手掛け、トランプタワーや古城まで購入した森下は、同時に絵画ビジネスに乗り出した。そして、すでに展開していた絵画取引の一環として、絵画に興味を示していた許を案内したのである。 スイスのジュネーブにはアイチの絵画倉庫があり、当地の画商との取引も頻繁におこなってきた。森下たちはその画商の案内で展覧会場を回った。許は絵画の購入にも乗り気になっていった。 「(森下)会長、この絵が気に入りました。会長の口添えで値切ってもらえまへんやろか」  そんな会話を交わした。だが、さすがに秘書のカードで絵画まで買うわけにはいかない。というより、最初から絵画については森下がパリにある現地法人を通じて買い付ける予定でもあった。森下にとって欧州行きは、許永中という売り先を決めるための旅である。バブル紳士と呼ばれる成金たちは1980年代末期になると、森下と同じように絵画を買い漁るようになった。その多くは、森下が指南してきたといえる。レオナール藤田の「猫」〈一九六一年に初めてオークションで落札したルノワールは二百万円だったが、今は二十億円はする。だけど、私個人のコレクションは絶対、売らない〉  森下は1990年8月号の「月刊Asahi」で、ジャーナリストの歳川隆雄のインタビューにそう答えている。その話自体は嘘ではないだろう。森下はルノワールやゴッホなど洋画の収集で名を馳せた。半面、森下自身が私に語ったところによれば、初めに絵画に興味を持ったのは、洋服屋を始めた戦後まもなくの頃だ。仏印象派ではなく、横山大観や東山魁夷などの日本画に感じ入ったのが始まりだったという。 森下は貸金業を始めて間もない1960年代初め、藤山愛一郎から薦められてレオナール藤田こと、藤田嗣治作の「猫」を350万円で購入した。藤山コンツェルンの2代目総帥である藤山は、日本商工会議所の会頭や経済同友会の代表幹事を歴任した財界人であり、自民党藤山派を率いて外相も務めた。その一方、ホテルニュージャパンを創業し、横井英樹にホテルを譲り渡した。絵画・美術界では藤山コレクションが知られ、森下とも縁ができたのであろう。藤山に薦められて買ったレオナール藤田の「猫」は、森下にとって最初の大きな買い物だった。森下は「猫」をいたく気に入り、田園調布の邸宅の玄関ロビーに飾ってきた。3000万円ほどの値が付く絵画のはずだ。  ところが、この絵はもともとパリで描かれた作品だったため、日本では鑑定書が発行されていなかった。そのため森下は、ある日この絵を東京美術倶楽部に鑑定させたところ、贋作だったと判明する。そこから手放した。  森下は他のバブル成金たちよりずっと早くから美術品の取引を始め、海外の名画を買い漁った。奇しくも、倒産した銀座の画廊「月光荘」との取引が、森下が絵画ビジネスを展開するきっかけとなる。仏伊の美術品に切り替え、大当たり 大空の月の中より君来しや ひるも光りぬ夜も光りぬ──。  月光荘という店名は、この仏ポール・ヴェルレーヌの詩から付けられたという。与謝野鉄幹・晶子夫妻が創業者の橋本兵蔵にそれを進言し、輸入画材店として1917(大正6)年に創業された。もとは、東京府豊多摩郡淀橋町角筈(現・新宿区)にあり、建物はレオナール藤田がデザインしたとされる。店はいったん戦争で焼けたが、終戦から3年後の1948(昭和23)年、銀座に移り、わずか3坪の広さの店を再オープンした。  事業の転機は、創業者兵蔵の息子の百蔵が二代目として経営を引き継いだときである。副社長となった百蔵は1967年、出身校である慶応幼稚舎の後輩、中村曜子を経営に引き入れた。曜子は陸軍士官学校卒の夫、典夫と戦中に結婚し、のちにピアニストとなる紘子をもうけるが、夫とは離婚して「泰東印刷」を設立する。  そこでかねて曜子に好意を寄せていた百蔵は、彼女を月光荘に迎え入れ、社長に据えて自らは会長に就いた。月光荘を取り仕切るようになった二人は、1970年代に入ると、それまでの画材業から絵画、美術品の売買、さらには不動産事業にまで手を広げた。 この月光荘の事業拡大は、のちに首相となる中曽根康弘の存在抜きには語れない。1972(昭和47)年7月にスタートした第一次田中角栄内閣で通産大臣と科学技術庁長官を兼務した中曽根は、海外からの文化輸入政策を掲げた。そこに応じたのが、月光荘の社長に就任したばかりの中村曜子だ。森下が次のように振り返った。 「中曽根総理は親しかった中村曜子さんと三越(百貨店)の岡田(茂)さんに声をかけ、それならと月光荘でロシアから絵を輸入するようになったんだね。それでカネが必要になって、私のところで出すようになってね。そこから付き合いが広がっていったんだよ」 参考までにいえば、1970年代に月光荘のロシア担当者としてかの地に派遣されていたのが、上智大学外国語学部ロシア語学科を卒業して入社した安河内眞美である。『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)にレギュラー出演している安河内は、現在日本美術を専門にしているが、もとはロシア語を専攻し欧州美術を学んできたのだという。  月光荘ではいっときロシア絵画を日本のオークションに頻繁に出展し、事業の主流に据えた。だが、ロシアの美術品はさほど人気が出ず、はかばかしくなかった。そうしてもっぱらフランスやイタリアの美術品の取引に切り替え、大当たりした。キラ星のような顔ぶれが集った 中村曜子と橋本百蔵が率いた銀座の月光荘は、ある時期、日本アートの世界を変えたと言っていい。美術の会員制クラブを考案し、銀座月光荘ビル地下1階に「サロン・ド・クレール」をオープンすると、そこにキラ星のような政財界の顔ぶれが集った。その名をざっと挙げると、日本のエスタブリッシュメントが勢ぞろいしているかのようだ。  政界では中曽根康弘を筆頭に、自民党の相沢英之や石田博英、社会党の松前重義。韓国首相の金鍾泌までサロンのメンバーに名を連ねた。また財界からは、新日鉄の永野重雄や斎藤英四郎という社長会長経験者をはじめ、東京証券取引所理事長の谷村裕や三井銀行中興の祖と呼ばれた小山五郎、野村證券社長の北裏喜一郎や日興証券会長の渡辺省吾、日立製作所会長の駒井健一郎、サッポロビール社長の松山茂助、日本医師会会長の武見太郎、東洋電機製造社長の太田剛、三越社長の岡田茂……。さらには裏千家の千宗室や作家の三島由紀夫、演出家の浅利慶太といった文化人までサロンに足を運んだ。 月光荘は1980年代半ば、まさに隆盛を極めた。その絵画ビジネスを裏で支えたキーマンが、アイチの森下だったのである。月光荘がいかにアイチの森下を頼ってきたか。1987年12月22日現在の月光荘グループの借入明細がそれを如実に物語っている。月光荘の借入の特徴は、短期借入が突出して多いことにあった。287億円という借入総額のうち、246億6400万円もある短期借入に対し、長期借入は41億2500万円しかない。  周知の通り複数年契約の長期借入と異なり、短期借入は1年の返済契約だ。もっぱら企業が運転資金として調達し、契約を更新しながら借り換える。概して長期より金利が低く、追加融通もきくため便利だが、経営の安定にはつながらない。  大半の借金が短期借入である月光荘は、それだけ事業運転資金に切羽詰まっていたのであろう。その借入先として旧財閥系の三井不動産ファイナンスの34億8000万円や国内信販の22億6000万円といった大手が貸出し上位を占めるなか、街金融業者のアイチの融資は抜きん出ている。三井ファイナンスと並んで4位、実に22億円を融資し、その下の6位の安田火災保険が20億7500万円だ。 アイチの金利は決して低くはないが、月光荘ではそれだけ森下を頼り、森下もこの画廊に肩入れしてきた。  だが、やがて橋本会長、中村社長の二人による放漫経営が明るみに出る。挙句、その杜撰な経営が刑事事件に発展するのである。  事件の発火点はイタリアだった。巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ作「岩窟の聖母」のマリアの顔を描くための習作用デッサンが持ちだされ、日本へ流出した。1986年に入り、ミラノ検察庁が捜査を開始したところ、デッサンの行き先が月光荘だったのである。(第二部第5回へつづく)【プロフィール】森功(もり・いさお)/ノンフィクション作家。1961年福岡県生まれ。岡山大学文学部卒。新潮社勤務などを経て2003年よりフリーに。2018年、『悪だくみ―「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。近著に『菅義偉の正体』『墜落「官邸一強支配」はなぜ崩れたのか』など。※週刊ポスト2022年4月1日号
2022.03.27 16:15
マネーポストWEB
二階俊博氏(時事通信フォト)
二階俊博氏が力を失って…群馬選出「総理の孫2人」の天国と地獄
 10月31日投開票の総選挙を目前に、一部の選挙区で自民党の公認候補調整が大揉めに揉めている。10月11日に自民党は295人の一次公認を決定。小選挙区の公認候補271人の顔ぶれが固まったが、複数の自民党議員らが立候補を目指している選挙区については調整が間に合わなかった。そのうちのひとつが尾身朝子氏と中曽根康隆氏という現職2人が出馬を目指す「群馬1区」だ。総選挙直前の総理交代によって、“令和の上州戦争”が思わぬ展開を見せている。 前回2017年の総選挙で群馬1区から出馬して当選したのは尾身氏で、中曽根氏は比例単独(北関東ブロック)での立候補で議席を得た。全国紙政治部記者が解説する。「細田派の尾身氏の後ろ盾は、同派に大きな影響力を持つ安倍晋三・前首相で、尾身氏の集会に姿を見せるなどして支援してきた。一方の中曽根氏は二階派所属で、二階俊博・前幹事長が後押ししてきた。二階氏が幹事長として取り仕切っていた2017年の総選挙では、複数の自民党議員が出馬を表明した選挙区で、党がいずれの候補も公認せずに無所属で戦わせ、当選したほうを追加公認するといった強引な“二階裁定”があった。二階幹事長が健在なら、今回はそういった豪腕で中曽根氏を当選に導くとみられていた」 それが総選挙を目前に菅義偉・首相が退陣。二階氏は幹事長を外れ、その二階氏を批判したことで支持を集めた岸田文雄氏が新総理となり、流れは大きく変わった。群馬1区の候補者調整はギリギリまでもつれ、「中曽根氏が前回総選挙のように北関東ブロックの比例名簿順位30位といった扱いであれば、今回は当選ラインに届くか分からない」(同前)という状況だ。 群馬では、自民党議員同士での限られた椅子の奪い合いの歴史があるが、その歴史がまた繰り返されることになった。県連関係者が言う。「もともと群馬県は中曽根康弘、福田赳夫、小渕恵三という3人の総理大臣を輩出し、福田氏の息子の康夫氏も首相の座に就いた自民党王国です。中選挙区時代は旧・群馬3区に中曽根、福田、小渕の3氏が並び立ち、自民党同士の激しい票の奪い合いは“上州戦争”とも呼ばれたが、小選挙区制が導入されて旧・群馬3区は新たに群馬4区、5区に分割されました。“3人の議員に対して選挙区は2つ”となり、群馬4区にすでに代替わりしていた福田康夫氏が、5区に小渕氏が振り分けられ、中曽根康弘氏は自民党比例北関東ブロックの終身1位というかたちになったのです。過去のその経緯が、現在の公認争いにつながっているという見方もできる」 その後、群馬4区は福田康夫氏の長男・達夫氏が、同5区は小渕恵三氏の次女・優子氏が世襲し、現在に至っている。両氏は今回も盤石の戦いで当選は堅いとみられている。一方で比例に転じた中曽根康弘氏の長男・弘文氏は参院議員から衆院に鞍替えするチャンスがなく、その息子の康隆氏もいま、小選挙区からの出馬を巡るいざこざで窮地に立されている。「菅氏の退陣とともに中曽根康隆氏が二階氏という後ろ盾を失った一方、総裁選を前に派閥横断的に若手を集めた『党風一新の会』を立ち上げ、結果的に岸田氏の総理就任を側面支援したかたちとなった福田達夫氏は、当選3回ながら異例の党総務会長に抜擢された。“総理の孫”である2人の間で、明暗がはっきり分かれた格好です。小渕優子氏が組織運動本部長のポストに就き、政治資金スキャンダルによる経産相辞任(2014年)から着々と復活の歩みを進めているのも、“中曽根一家の苦境”とは対照的です」(自民党関係者)“令和の上州戦争”はどういった結末に向かうのか。
2021.10.14 07:00
NEWSポストセブン
中曽根康弘氏に孫の康隆氏(左)が初当選を報告(写真は2017年撮影/本人提供)
中曽根康弘氏から孫へ「歴史を勉強しなさい。浮かれている場合ではない」
 遺された家族の心に刻まれる、巨星たちが遺した「言葉」。第71・72・73代首相の中曽根康弘氏の孫にあたる中曽根康隆氏が振り返る。 * * * 晩年の祖父(中曽根康弘氏)は入退院を繰り返していましたが、病室でも元気に過ごしていました。大抵はベッドのリクライニングで起きており、新聞は3、4時間もかけて隅々まで線を引きながら読み込む。国会中継も欠かさず見ていました。 妊娠中の妻を連れてお見舞いに行った時には、「双子ができる」と報告すると、「よかったなぁ」と喜んでくれました。 亡くなる1か月ほど前に会った時は、祖父を元気づけるために、病室に私のポスターを貼ったのですが、「よく見えるように、もっとこっちに貼れ」と言われて貼り替えました。 亡くなる2日前も様子は変わりなく、国会でのことを報告すると、「頑張れ」と嬉しそうに言ってくれました。〈孫の康隆氏は祖父、父の背中を追って、2017年に自民党衆院議員となった。2年後の2019年11月29日、中曽根氏は101歳で死去した〉 私の名前は祖父が命名しました。自分の字を継いだ唯一の孫でもあり、可愛がってもらいました。 祖父からかけられた言葉で大切にしているのは、初当選の報告の時に言われた言葉です。 開口一番に「歴史を勉強しなさい。浮かれている場合ではない」と言われました。「先見性をもって国の舵取りをできるようにならないと、政治家として駄目だ」とも。祖父は政治家になることが目標ではなく、政治家になって日本のために何をやるのか、その目的を持つことが大事であると真っ先に教えてくれたと受け止めています。 そうして手厳しく対応しながらも、5分程度の面会の間に祖父は5回も握手をしてきました。徐々に嬉しさが込み上げてきたんだろうなと感じました。 歴史を学べということは、思えば随分前から祖父に求められてきました。 高校時代の途中から祖父と同じ屋根の下で住み、様々な話をするようになりました。 私が部活から帰ると、玄関に新聞や本が置いてある。外交・安全保障や憲法、教育政策などが多かった。それらには祖父が付箋を貼っており、線が引かれていた。「康隆、これを読みなさい」ということです。夕食の際に、資料や書籍を読んだことを報告し、その内容について話をすることがありました。祖父の政治家としての熱量は、この頃から感じていました。 人の話を聞くことが政治家にとって大事な仕事であるとも、祖父から教わりました。 大学時代に、祖父が「ゼミのメンバーを集めてくれ」と言ったんです。「今の若者が何を考えているのか聞きたいから、お昼にカレーライスを食べながら意見交換をしよう」と。それでメンバーに家に来てもらったのですが、当時80歳くらいの元総理が大学生の話をテープレコーダーで録音し、メモを取りながら聞いている。一人ひとりに対して「あなたは今の日本をどう思っているか」といったことを質問して、意見を言ってもらう。それに対して祖父は意見するわけでもなく、しっかり話を聞いていました。 祖父は引退後も常に学び続けていました。一緒に出かける時にも、車の中ではずっと新聞を読んでいるか、スピーチや政策について原稿を書いていました。 頭の中で常に国のことを考えるか、自身の修養を積む。その姿は、祖父からかけられた多くの言葉とともに強く印象に残っています。※週刊ポスト2021年8月13日号
2021.08.02 16:00
週刊ポスト
島村宜伸元農水相が中曽根康弘氏との思い出を振り返る(時事通信フォト)
中曽根康弘氏の後輩指導法 勉強しろとは一切言わず、本を渡す
 島村宜伸元農水相は中曽根康弘氏の側近として長く仕えた。島村氏が政治の師とその言葉について振り返った。 * * * 父・島村一郎は衆議院議員でしたが、私は政治家になるつもりはなく、日本石油に就職しました。 ただ、地元の江戸川区の下水道整備が遅れているのを見るに見かねて、砂防会館に行った時、事務所から出てきた中曽根さんとバッタリ。それが最初の出会いでした。 せっかくなのでお話ししたいと言うと「5、6分ならある」と部屋に通され、お互いの持論をぶつけあって結局、40分くらい話した。後日、会社に電話があり、1970年から秘書になりました。 当時の中曽根派は新政同志会という小さな派閥で、勉強会が中心でした。評論家や専門家を招いて講演を聞く時、中曽根さんはいつも前列に鎮座ましましていました。「お互い国会議員なのだから対等だ」という考えで、派閥の領袖だからといって威張ることは一切ない。怒鳴っているのは見たことがありません。 勉強しろとは一切言わない。だけれど「島村、この本、知っているか」とちょくちょく本をくれるんです。自分がお読みになったもので、必ず傍線(ライン)が引かれており、どこが大事なのか分かるんです。それらを読み、中曽根さんと話をすることで、どんどん知識を増やしていきました。〈1976年、父・一郎が引退すると、宜伸氏は衆院選に立候補。初当選を果たし、その後は文部大臣や農水大臣を歴任していく〉 私は側近だから応援は後回しでいいのに、わざわざ来てくださった。父は中曽根さんの1期先輩ですが、石橋派に属したいわば政敵。それでも父の東京湾開発の実績などを持ち出して「大変立派な方だった」と褒めるので、地元の方々は目に涙して喜んでいました。 中曽根派は少人数で資金力もないから、地元の戸別訪問をきめ細かにやる。「常在戦場」が中曽根さんの口癖でした。 海軍の頃からの習慣なのか、中曽根さんはとにかく早食い。お腹が弱いという問題を抱えていて、演説会場に着くとまずトイレという時期もあった。だから私が常在戦場を踏まえて、「もっとしっかり噛んでください。戦いの場(演説会)に行くのにそれではダメでしょう」と進言したんです。 それからはよく噛んで食べるようになり、「内臓の調子がよくなった」と喜んでいました。 一昨年、お亡くなりになる直前にお訪ねしたら、中曽根さんは私の手を両手で挟み「島村君にはお世話になった」と言ってくださいました。101歳半まで長生きされましたが、私のアドバイスで食事をよく噛んで食べるようになったことで長生きできたという感謝の気持ちだったのでしょうか。※週刊ポスト2021年6月18・25日号
2021.06.15 07:00
週刊ポスト
中曽根康弘氏が首相だったら、コロナ禍をどう乗り切る?(時事通信フォト)
コロナに弱腰な日本政府 必要なのは中曽根康弘氏の「俺が俺が」精神
 未曾有のコロナ禍にもかかわらず、リーダーシップに欠け、対策も後手後手に回っている日本政府だが、いま昭和を代表する政治家、中曽根康弘氏が首相だったら、このコロナ禍をどう乗り切っただろうか──。外交評論家の加瀬英明氏が、過去の歴史を振り返り、現状を打破するヒントを提言する。 * * * 先進国のなかで、日本はワクチン接種が大きく遅れています。OECD加盟国37か国のなかで、接種が始まっていないのは日本を含む5か国のみ。これは日本政府の弱腰がなせる業でしょう。 もし中曽根さんが首相なら、レーガン大統領との「ロンヤス関係」に象徴される強固な日米同盟の関係を生かし、諸外国を出し抜いていち早く国民のためにワクチンを調達していたはずです。 中曽根首相は貿易赤字縮小や不沈空母発言などで「アメリカ追随」と批判を浴びました。しかし、首相特別顧問として間近で見ていた私からすれば、彼は日本にとっての必要性を勘案してアメリカに従っていた。核兵器を持たない日本はアメリカに頼らざるを得ないからです。 中曽根首相は、ただアメリカの言いなりになるのではなく、日本の存在感を示すことを考えていました。1983年のウィリアムズバーグサミットでの記念撮影では、レーガン大統領の隣のポジションを勝ち取り、「日本の国際的地位が上がった」という印象を世界に与えました。 コロナ禍の今、一国のリーダーである首相に求められているのは、中曽根首相が持っていたような強力なリーダーシップであり、「俺が、俺が」という気概です。 中曽根首相の発信力の高さは安倍首相や菅首相とは比べ物になりません。貿易赤字が日米の外交問題になっていた1985年には、会見場にパネルを持ち込み、グラフで貿易赤字の状況を示しながら説明しました。 1987年にも売上税に関して、パネルを使って説明しました。自身の政策を国民に訴えかけたい、国民のため、国家のために必要だと信じる政策を理解してもらいたいと思い、努力していたのです。 菅首相は「専門家の先生方のご意見を伺いながら」などと何度も口にしていますが、そんなのは当たり前のこと。あえて専門家の名を出すことで、自分だけの判断ではない、責任を免れたいという内心を暗に示しているようにも見えます。これでは一国のリーダーたる首相としての自覚が欠けていると言わざるを得ません。 中曽根首相なら、感染拡大を防ぐために「ともかく自粛してほしい」と、一番大切なことを訴え、図表も使って、自分の言葉で説明、説得したでしょう。それに反するGoToキャンペーンなんて、絶対にやらなかったでしょうね。※週刊ポスト2021年2月26日・3月5日号
2021.02.19 16:00
週刊ポスト
コンビニアルバイトには外国人留学生が多い(時事通信フォト)
コンビニで働くベトナム人留学生が明かした「職場での軋轢」
 30年くらい前までは、コンビニエンスストアのアルバイトというと、誰でもできる仕事という言われ方をした。しかしいま、コンビニは単なる買い物の場所ではなくなっている。各種料金を支払い、宅配便の荷物の受け取りと預かり、チケットの発券、レジでの支払時には各種ポイントカードの登録があり、支払い方法も多種類。これだけ複雑だと、「誰もができる」仕事だとは言いがたい。その多くを最近では、外国人留学生が担っている。俳人で著作家の日野百草氏が、今回は、「自信」という言葉が好きなコンビニバイトをするベトナム人留学生についてレポートする。 * * *「日本はいい国、もっと自信もっていいのに」 私は都心のコンビニで外国人の店員と仲良くなることが多い。というか取材になるかもしれないので必ず声を掛ける。地方ではまだ馴染みが少ないかもしれないが、都心では外国人のコンビニ店員は当たり前で、繁華街となると日本人の店員を探すほうが難しい。20代のベトナム人留学生グエン君(仮名)もそんな当たり前のコンビニ外国人店員の一人だ。日高屋が好きだというので連れて行った。大きくて漆黒の綺麗な眼をクリクリさせて「ラ・餃・チャセット」を前に大喜びである。「お金持ち、みんな優しい、(街も)綺麗、楽しいこといっぱい」 グエン君はまだ日本に来て一年ちょっと、それほど流暢に話せるわけではないし、少しシャイな男の子だ。ちなみにベトナム人は名字が極端に少ないので、本当は名字で呼んだりしない。下の名前で呼ぶが、ここは仮名なのでグエン君にする。日本でいったら佐藤さんや鈴木さんというところか。ベトナムの英雄ホー・チ・ミンの愛称は「ホーおじさん」だが彼も一般人ならミンさんと呼ぶのが普通、ちなみにホー・チ・ミンの本名もグエンさんだ。「だから自信もつ。日本いい国、来てよかった」 日本を褒めてくれるグエン君。ベトナムの留学生は寡黙だが率直で、自信にあふれている熱血漢が多い印象だ。内なる闘志と言うべきか。ベトナム語で「自信」(confidence)は「ス トゥ ティン」や「トゥ ティン」(グエン君談)。なんとなく昔の日本人のような懐かしさを感じる。戦争という悲劇に対してこんなことを言うと怒られてしまうかもしれないが、やはり国を守りきった誇りというのは子々孫々まで伝わるのだろう。それもあのアメリカ相手にである。そう、ベトナム戦争の勝利こそ、ベトナム人民の血をもって超大国アメリカを退けた誇りこそがベトナム人を支えている。ベトナムの歴史は中国、フランス、そしてアメリカといった大国との戦いの歴史でもある。「日本すごいのに自信ない、よくないです」リーダー怖い。逆らうと仕事がなくなる グエン君がさっきから言っているのはこういうことだ。グエン君は専門学校に通う留学生だが、「1週間28時間以内」という資格外活動の許可を貰いコンビニで働いている(夏休みなどの長期の休みは「1日8時間以内かつ週40時間以内」働ける)。ベトナムに比べたら賃金はいいしコンビニのバイトは極端な重労働というわけではない。日本は豊かで生活も便利、都心は楽しいことばかり、それなのに同僚の日本人アルバイトはみんな暗くて、自信なさげに見えるというわけだ。「一生懸命働くの当たり前、なのに私とみんな(グエン君の言うみんなは外国人のこと)ばかり仕事させる。命令かなしい」 つまり日本人アルバイトが面倒な仕事を押し付けるということかと聞くと、「そうです」とうなずく。かわいそうに、どこの仕事先にも困ったヤツはいるが、グエン君は日本人のそれに当たってしまった。ちなみに細かいニュアンスなどは英語で補足してもらっている。「仕事だからがんばります。でも命令怖い。みんな怖がってる」 みんなというのはグエン君と同じ留学生アルバイトのことだ。中国人やバングラデシュ、ネパールやインドネシアなど様々な国のアルバイトの子たちが働いている。その日本人もアルバイトのはずだが、ひょっとしてそいつはいわゆるバイトリーダーなのか。「シフトリーダーです。怖いです、逆らうと仕事少ないです」 なるほどコンビニの場合はシフトリーダーか。で、そのバイト頭が外国人バイトを牛耳っている、というわけか。そして気に入らないとシフトを減らされる。日本人同士でもよくある話だがひどい話だ。グエン君、日本語はまだまだだが、実は英語ができてフランス語と中国語(普通語)も簡単な会話ならできる。日本人ならとんでもないエリートだ。なので実際の会話はグエン君に英語である程度補完してもらっている。それで私も推測しているというわけだ。「リーダーに逆らって、社長さんに言われたらクビになります」 社長というのはコンビニ店のオーナーのことで、その日本人のシフトリーダーをかわいがっているようだ。確かに、私が別の取材で知り合ったコンビニ店のオーナーは外国人のほうが真面目でよく働くし文句も言わず最低賃金で働いてくれる上に語学が出来るので日本人なんかいらないと言っていたが、あれは都心でも繁華街のど真ん中で少々特殊、やはり日本人が来てくれたほうがいいオーナーが多いだろう。「他にも日本人いますけどリーダーのいいなりです。私たち(外国人)とは話しません」 他の日本人のアルバイトも少ないながらもいるが、短時間だったり避けられたりで話すことは少ないそうだ。それぞれ事情もあるし日本人にとってのコンビニバイトは留学生とは少し意味合いが違ってくる。必要最低限以外は話したくない人も多いだろう。その辺はお国柄か。「社長さんほんとは日本人いるけど、私たちとります」 グエン君によれば、オーナーは日本人が欲しくて、日本人のほうが安心だと言っているそうだ。オーナーは高齢とのことで、コンビニで働いてくれる日本人の男というだけで貴重なのだろう。しかしグエン君たち外国人店員にとっては鬼軍曹、まったく理不尽な話である。どんな男なのか。ここは私も詳しく聞きたいので英語で話してもらった。「年齢は30代くらいだと思う。これまで何をしていたかはわからないが、大きな仕事をいくつもしてきたと言っている。芸能人とも知り合いで、大手企業の社長と食事をしたこともある」 だいたいこんなことを話してくれた。やれやれ、それでもコンビニではベテランでシフトリーダーとのことなので、その武勇伝も昔の話だろう。もしかしたら日本人の彼にも夢があるのかもしれないし、求職中のつなぎバイトのつもりで入ったら次が見つからずに牢名主になってしまった口かもしれない。珍しくもないフリーターだが、グエン君からすれば日本人というよりは異星人、理解不能の存在だろう。「日本人のフ ヌー(ベトナム語で「おばさま」か)もやめました、私たちをかばってくれたのに、やめるのかわいそう」 コンビニの日本人アルバイトおばさんはグエン君たちの味方だったのだろう。個人的にも気に入らなかったのかもしれないが、そのシフトリーダーと衝突してやめた、ということか。グエン君たちをひどい目にあわせるシフトリーダーの30代アルバイト、こんな男があちこちの外国人労働者の職場にいて、威張り散らしているのかもしれない。いや、実際コロナ以前には技能実習生含め事件化したものもある。1983年、中曽根康弘内閣の留学生10万人計画から40年近くも数ばかり追い、一方では不良外国人が横行、一方ではこうしてグエン君のような真面目な留学生や実習生がひどい目に遭っている。「リーダー、自信ないからそういうことする」コンビニ難しい。私たちにはそれができる。すごい。 先ほどからこの「自信」という単語、ちょっと意味を捉えられず流し気味にしていた私だが、グエン君の次の言葉でその真意を知った。「自信ないからそういうことする。自信ある人そんなことしない」 正直に言う。この言葉で私は涙ぐんでしまった。まだ若いベトナム人青年が、こんな素晴らしいことを日本語で言ってくれる。親に教わった言葉だというが、感動した。「リーダー自信もつべきです。コンビニ難しい。私たちはそれができる。すごい。リーダーもすごい人」 ごめんグエン君、おじさん本当に泣いてます。ベトナムの政治体制は別にして、教育の素晴らしさはアジアでも群を抜いている。グエン君はベトナムで月3万円しか貰えなかったから、日本で何倍も貰えることに感謝しているという。ベトナム、誇り高い国だが先進諸国に比べればまだまだ発展途上の国だ。そうした国々の人々に辛くあたる日本人、グエン君の言う通り、かつての自信を失っているからこそかもしれない。その日本人シフトリーダーだってきっとそうだ。「コンビニ凄い。税金やる。なんでもやる」 私が異国のコンビニで働けるかと言ったらまったくもって自信がない。本当に凄いと思う。あの多種多様、何でもありのサービスすべてを扱わなければならない。異国の地で、異国の言葉で、異国の人を相手に。そもそもコンビニの時給はその労働内容に見合っているとは思えない。グエン君には大金かもしれないが、彼、いや能力ある外国人はもっと貰っていいはずなのに。実際、コンビニを介護や製造のような特定技能にして技能実習制度の対象にしようという動きもある。それなのにグエン君は好きな日本で奴隷頭を気取った日本人にいじめられている。日本が嫌いになってしまわないか心配だ。「そんなことない、日本いい国。ベトナム人我慢強い。自信ある」 ベトナム人留学生は2019年5月1日の時点で7万3,389人(文部科学省「外国人留学生在籍状況調査」)と中国の12万4436人に次いで多い。都内では留学生以外の専業労働者含め約3万6000人(2020年8月24日現在)が暮らしている。政治体制や外交面の問題はあるが、ベトナム人はアジアではタイに次ぐ親日国であり、「ジャパンブランド調査2019」ではベトナム人の92.3%が「1年以内に渡航する予定がある」もしくは「日程は決まっていないが、いつか行きたいと思っている」と回答している。そしてコロナ禍にあっても、ベトナム人がコロナ収束後に行きたい国1位は日本である(インフィニティ・コミュニケーションズ・2020年7月15日調べ)。それなのに、アホな一部の日本人が本当に申し訳ない。「だいじょうぶ。私に夢あります。我慢できます。日本はいい国、我慢できる」 夢とはなにかと尋ねると、アメリカに行きたいと言う。ここでもやはりアメリカか。ベトナムに限らず、中国も韓国も、日本の留学生の大半は一部のマニアを除けば「欧米に行けないから」である。金がないから、成績を満たさないから、近場の日本、誰でも留学できる日本を選ぶ。そのシフトリーダーとやらが威張るほど、もう日本は偉くない。グエン君のことを貧しい出稼ぎアジア人と侮るなかれ、優秀で将来あるグエン君からすれば日本は踏み台だ。中国や韓国のエリート留学生となればもっと露骨である。アメリカで成功したい彼らにとって日本留学は残念賞なのが現実だ。「アメリカ、お金貯めていつか行きます」 グエン君は専門学校で日本語とITビジネスを学んでいる。ベトナム戦争や政治的な反米意識はあるが、若者はみなアメリカに行きたがるという。これは日本を除くアジアの大半、いや日本以外そうだと言ってもいいだろう。ある意味、日本人が留学せずとも国内で成功するチャンスが多く、成功せずとも日本で暮らせることは幸せなのかもしれない。それがいつまで続くかわからないが。アフターコロナを見据えて中国はもちろん、ベトナムや台湾といったコロナを抑え込むのに成功した国々が躍進しようとする中、日本はいまだコロナのただ中で後塵を拝している。 その後、グエン君とは彼が好きなサッカーの話で盛り上がった。ベトナムサッカー界の英雄、レ・コン・ビンの話などしてあげたのに好きな選手はメッシだという。バルサの不甲斐なさを嘆いていた。今どきの若者だ。ちなみにメッシがヴィッセル神戸に来るかもという話をしたら笑われた。めちゃウケた。グエン君が笑ってくれたのは嬉しい。実はグエン君、あまり笑ってくれなかったのはコンビニバイト以外にも心配があるからで、もしかするとベトナムに帰らなければいけなくなるかもしれないというのだ。詳しい話は端折るが、留学生のシステムは複雑で、下手をすると強制送還になりかねない状況だという。グエン君は借金をして日本に来ている。もしビザが更新されなければ借金だけが残るし平均年収20万円(月収ではない!)のベトナム本国で返せる額ではない。留学生ビジネスの闇だが、日本語学校、専門学校、一部の私大には悪質な学校も多い。この点、とくに定員割れのいわゆるFラン大学による留学生ビジネスは私も取材に動いている。 都心ではごく当たり前になったコンビニで働く外国人、その国、その人それぞれに背負うものがあり、この日本であの複雑極まるコンビニサービスに従事している。コンビニバイト、都心では日本人は見向きもしないバイトになってしまった。だが、このコロナ禍で2020年6月の完全失業者数は196万人にも及び前年同月に比べ33万人の増加、5か月連続の増加(総務省、2020年7月31日発表)、そして生活不安から、その都心部でも日本人の応募者が増え始めた。しかしどうだろうか、日本語はたどたどしくとも英語、中国語などが出来て一生懸命働く外国人は多い。仕方なく働く日本人とコンビニでも一生懸命働く外国人、オーナーによっては後者しかいらないという人もいる。そのシフトリーダーの男も、いや私たち日本人も、そう遠くないアフターコロナの新世界において、いずれグエン君のような優秀かつ自信に満ちた外国人の下で働くことになるかもしれない。●ひの・ひゃくそう/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。近刊『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社)寄草。近著『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)。
2020.08.30 16:00
NEWSポストセブン
小池知事の父の夢支えた浜渦元副知事「百合ちゃん幸せか?」
小池知事の父の夢支えた浜渦元副知事「百合ちゃん幸せか?」
 小池百合子氏(67才)が東京都知事に再選された。そのルーツは“政治好き”だった父の勇二郎氏を抜きには語れない。石油関係の事業を営んでいた1922年生まれの勇二郎氏は、石原慎太郎氏が1968年の参院選全国区で出馬すると、関西地区の責任者となってトップ当選させ、自分も1969年の総選挙に旧兵庫2区から立候補する。しかし結果は惨敗した。小池氏が甲南女子高校2年のときだ。このとき、勇二郎氏の選挙を手伝ったのが、後に自民党から選挙に出て防災担当相となる鴻池祥肇氏と、石原氏の秘書から副知事を務める浜渦武生氏だった。 小池父娘の貴重な実像を知る浜渦氏だが、築地移転問題をめぐって小池氏に厳しい追及を受けたこともある。これまで沈黙を貫いてきたキーパーソンが、ついに重い口を開き、小池都知事について話し始めた。●聞き手/藤本順一(政治ジャーナリスト)──今回の圧勝をどう見ますか。浜渦:入れる対象が彼女しかいないのだから、勝って当然でしょう、自粛選挙なのに、コロナ対策で彼女だけ毎日テレビに出続けられる。政務と言いながら実際には選挙活動ができるわけですから。ただし、彼女の都政でいったい何が変わったのか。築地の移転問題にしても、煽って煽った結果、何も変わらなかったじゃないですか。──彼女との関係は50年以上前に遡る。浜渦:彼女はかつて、私が「家に居候をしていた」と言っていましたが、それは嘘。私は関西大学の学生だった頃、「日本の新しい世代の会」という石原さんの政治団体で学生部のリーダーをしていた。 関西担当の専務理事をしていたのが父親の勇二郎さんで、1969年に旧兵庫2区から衆院選に出るというので、石原さんから「彼には何もないみたいだから、君が学生を集めて手伝ってくれよ」と言われたんです。選挙事務所すらないので、その団体の尼崎支部長だった鴻池祥肇さんの事務所を使うことになり、私はそこで寝泊まりするようになった。プレハブがあって、私が集めた学生たちもそこに詰めていました。 あの頃の勇二郎さんは中曽根康弘さんに心酔していて、息子の勇くんに一時期「康弘」と名乗らせていたほど。それなのに選挙になって中曽根さんに支援を頼んでも全く相手にもされず、頼れるのは石原さんの人気だけでした。私が車上運動員、いわゆるカラスをやっていると、勇二郎さんはこう言えと。「石原慎太郎! 石原裕次郎! 小池勇二郎!」って(笑い)。 呆れたことは何度もあります。中曽根さんが海軍少佐だったのに憧れて、勇二郎さんは「自分は中尉だった」と言うんです。でも、私の父も偶然、海軍学校から終戦の間際にようやく海軍大尉になっていたので、「父より10歳も年下で海軍学校も出ていないのによくなれましたね」と言ったら、ケッケッケッと独特の笑い方をしながら、「君ね、嘘も100回言えば本当になるんだ」と。そういう人なんです。──その頃、甲南女子に通っていた百合子さんとは?浜渦:選挙事務所に来ていたのは兄の勇くんだけで、1歳年下の彼とは国家や政治について何度も議論しましたが、5歳年下の百合ちゃん、当時のことなのでそう呼びますが、彼女とはそんな話をしたことがない。芦屋の小池家は線路近くにあって、実際には「芦屋のお嬢さん」と呼べるほどの家ではなかったんですが、お母さんは彼女をそのイメージで育てたかった。 彼女自身が言うように、百合ちゃんの顔にはアザがありますが、実はお母さんの顔にも同じようにある。お母さんはそのことを気にしていたようで、だからこそ特別、娘を大切にしていた。当時の百合ちゃんはほんわかした印象で、その後の政治家・小池百合子とは全くの別人です。◆「百合子の応援をしてくれ」──結局、勇二郎さんは落選します。浜渦:選挙戦の最終日、勇二郎さんと鴻池さんと私の3人で、尼崎のガード下の焼き肉屋に入った。勇二郎さんはタスキを掛けたままで、まだ周囲に頭を下げている。鴻池さんと「もう止めましょう」と言いましたが、さすがにあれは感心しました。 ただ、勇二郎さんは「選挙のせいで会社が傾いた」と言っていましたが、実際には会社が傾いてきたから選挙に出たんです。勇二郎さんがやっていた三昌物産という貿易会社に、衆院議員になった佐藤文生さんがいたことがある。 その文生さんが運輸政務次官になった時に、「自分も当選したら通産政務次官になれる。そうしたら三昌物産がアラブの石油を一手に引き受けて、日本一の会社になる」と豪語していました。それが政治ですかと意見したら、「ポリティクス・イズ・ポリティクス、ビジネス・イズ・ビジネス」と言われました。政治とビジネスは分けていると言いたかったんでしょうが、私には政治を利用しているとしか思えなかった。──選挙後は交流がなくなったんですか。浜渦:その後、会社が潰れてエジプトに行ったと聞きましたが、たまに連絡が来ました。石原さんの事務所にいたときに電話があって、「百合子をカイロ大学に通わせるんだ。ただしアラビア語が全く分からないから、向こうの教材を全部日本語に訳して、丸暗記させる」と言っていました。勇二郎さんはビジネスでも政治でも挫折した経験から、息子の勇くんにはビジネスでの成功を託し、娘の百合子さんには政治家としての成功を託すようになったのではないでしょうか。 勇くんはその後、ODA関連の仕事をするようになるし、百合子さんも日本にいたときはお母さんの影響が強かったのに、エジプトに行ってからはお父さんの影響が濃くなって、政治家を目指すようになっていった。彼らがあちらで体験した苦労が、より絆を強くしていったのでしょう。──彼女とはいつ再会したんですか。浜渦:キャスターになったあと、一緒に番組をやっていた竹村健一さんは石原さんと仲が良かったから、その縁で会いました。その後しばらくして、今度はお父さんが訪ねてきて「百合子の応援をしてくれ」と言う。参議院選に日本新党から出馬するから、応援してくれと。しかし、私はその頃、自民党の鴻池さんのお手伝いをしていたので、「私は鴻池さんに恩義があるからダメです」とはっきり言いました。──なぜ小池百合子本人が頼みに来ないのか。浜渦:私からしたら、小池百合子はお父さんが作り上げたものですから、お父さんも同体のつもりだったんでしょう。勇二郎さんの考えは、今利用できる、もっと言えば騙せる人に近づくということ。私はそう思われたから、彼にとって必要になったときだけ連絡が来た。それは彼女も同じです。 彼女と私に関して、過去の因縁などと言う人がいるが、彼女は常に過去を否定し、今がどうあるか、どうすべきかだけを考える人。それもお父さんから徹底的に教え込まれたものだと思います。──1992年の参院選に当選した彼女は、翌年には衆院選に鞍替えし、鴻池さんのいる旧兵庫2区から出馬。彼女は土井たか子に次ぐ2位で当選し、鴻池さんは落選します。浜渦:本当にひどいと思いました。鴻池さんの落胆は大きかったでしょう。ただし、鴻池さんにも私にも、3人してガード下で焼き肉を食べた思い出はある。だからこそ鴻池さんは小池家について最期まで黙っていたし、私も語ってこなかった。◆石原家への恨み──その後、自身も都知事になった彼女の標的になりました。浜渦:前任者の活動を全否定するのが新しい人の在り方だし、過去の否定こそが小池家の教えです。まず石原慎太郎がターゲットにされ、そのあとに一番いじめやすい私が選ばれたんでしょう。 彼女には慎太郎さんではなく都連会長だった石原伸晃さんに対する恨みつらみがあった。都連の会合に呼ばれないと。伸晃さんに言わせると彼女が来ないということになるが、2人の関係が悪かったから、都知事になったあとに石原批判が始まったんです。彼女の標的は、慎太郎さんだけでなく石原家全体だった。──かつては石原さんから、「小池さんを後継に」という話もあったと聞いています。浜渦:実際に石原さんが辞めた後にその話はありました。石原さんから直接「どうか」と言ったと。百合子さんからも聞きました。しかし彼女のほうから断わったと。 実は彼女が都知事選に出馬する前に、私に電話があったんです。選挙を手伝ってほしいというお願いだったようですが、電話に出ませんでした。私は石原さんに恩義がある。石原さんがOKと言えば手を貸したでしょうが、許可がないのに勝手なことはできません。 その都知事選で石原さんは百合子さんを「厚化粧」と言って批判を浴びましたが、アザのことは知らなかったんです。──2013年に勇二郎さんは亡くなり、彼女の過去を知る人はいまやほとんどいません。現在の彼女をどう見ていますか?浜渦:メディアは彼女の言うことが虚偽だとしても、改めようとしません。言うことが少しずつ変わっていっても、過去のことを知らない若い記者たちは誰も指摘しない。 その結果、彼女の言いたい放題になってしまい、イメージが膨らんでいく。今の彼女は、メディアが作り上げた“虚怪”だと思います。だからこそ、そろそろ過去のことも含め話さなければと思うようになりました。 彼女には政治家としてやりたいことなどなく、ただ目の前の小石を拾い上げているだけに見えます。近くで支えてくれる人もいないのでは。果たして今、百合子さんは幸せなんでしょうか。【プロフィール】浜渦武生(はまうず・たけお)/1947年生まれ。石原慎太郎氏、鴻池祥肇氏の秘書を経て、東京都副知事、東京交通会館副社長、東京都参与を歴任した。2017年、築地市場移転問題に関して百条委員会から偽証罪で告発されたが、その後不起訴処分となった。※週刊ポスト2020年7月24日号
2020.07.12 07:00
週刊ポスト
安倍首相が後継者選び失敗 自民党「四分五裂」相関図
安倍首相が後継者選び失敗 自民党「四分五裂」相関図
「次の総理」は誰になるのか──歴代最長政権となった安倍晋三・首相にとって“後継者選び”は何よりも「求心力」を維持できる道具だったはずだ。しかし、コロナ対応で安倍首相の重用する後継候補が何の成果も挙げられず、一気に「遠心力」が生まれ始めた。“だったら俺にやらせろ”──。都知事選を圧勝した小池百合子氏が国政復帰を見据えるなか、自民党は四分五裂の状態に陥りつつある。 その最大の原因は、安倍首相が「後継者選び」に失敗したことだ。歴代最長政権を誇る安倍首相にとって、「後継者選び」は自らの権力維持の重要な手段のはずだった。 かつて中曽根康弘・首相(在任5年)は3人の後継者を競わせ、最後は「中曽根裁定」で竹下登氏を後継総裁に指名する力を維持した。小泉純一郎・首相(在任5年5か月)も安倍氏を後継者として養成し、総裁選で圧勝させた。 安倍首相が後継者に据えようとしてきたのが岸田文雄・政調会長だ。面長の顔に顎を隠せない小さなアベノマスクを国会でも議員会館でも着用し続けて首相に“忠誠”を示していることで知られる。首相は自分に決して逆らわない岸田氏であれば、退陣後も「院政」を敷けると考えていた。 ところが、その判断は裏目に出た。自民党内に“ボロ神輿は担げない”という不満が広がったからだ。岸田後継に最も反発したのが菅義偉・官房長官と二階俊博・自民党幹事長だとみられている。「菅さんは岸田さんと同じ派閥にいたことがあるが、“何がやりたいのかわからない”と政治家としての評価は最低レベルで、“発信力がないから選挙に勝てない”と総理にふさわしくないと考えている。二階さんも同じ党三役として、岸田さんの調整能力の乏しさに失望している」(自民党役員経験者) 安倍首相が昨年の内閣改造でその岸田氏を幹事長に起用して後継レールに乗せようとしたときも、二階―菅ラインが阻止。以来、2人と首相との溝が深まっている。 コロナ対策の給付金でも岸田氏は力量不足を露呈した。首相と会談して所得が減少した世帯への「30万円」給付を決めたと胸を張ったものの、二階氏や公明党に「一律10万円」給付へと一晩でひっくり返された。それを誤魔化そうと〈自民党としても当初から訴えてきた10万円一律給付を前倒しで実施する〉とSNSで発言して恥を上塗りする始末だった。政治評論家・有馬晴海氏が語る。「岸田氏は外相や自民党政調会長など要職を歴任してきたが、これといった実績は残していない。政界の名門家系の3世議員で宮沢家の親戚というだけで派閥の会長になった。俗に存在感がない人を毒にも薬にもならないというが、政治家の場合は国民にとって毒にしかならない。国難の中でリーダーシップを取れる人物ではないという評価は政界に広く定着している」“その程度の人物”が総理・総裁候補とあって、「岸田を担ぐならオレが」と首相のお膝元の最大派閥・細田派では、西村康稔・新型コロナ担当相、稲田朋美・幹事長代行、下村博文・選対委員長、萩生田光一・文科相らがポスト安倍に意欲を見せ始めたのだ。 西村氏が新型コロナ対応で出番が増えて知名度を上げると、下村氏と稲田氏はコロナ後の社会を考える「新たな国家ビジョンを考える議員連盟」を設立。“初の女性首相”を目指す稲田氏は他にも「女性議員飛躍の会」や「伝統と創造の会」などを主宰して勢力拡大に動いている。3人とは派内でライバル関係にある萩生田氏も意欲ありと見られている。 第二派閥の麻生派からは河野太郎・防衛相が「岸田後継」に反旗を翻した。新型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の配備中止を表明し、「次は出る、と言っている」と事実上の総裁選出馬を表明。「岸田支持で派内を一本化したい麻生さんは出馬を止めるだろうが、河野さんは聞く耳持たない」(麻生派議員)という。 安倍首相が後継者の人選を見誤ったことで、細田派、麻生派の主流派から我も我もと“自称後継者”が出現して政権に遠心力が働いている。 それだけではない。コロナ危機は総裁レースの様相を一変させた。岸田氏に次いで首相の覚えがめでたい総理候補とされていた加藤勝信・厚労相はコロナ対策が後手後手に回って評価を下げ、茂木敏充・外相も外交場面そのものがなくなって存在感を失い、レースから脱落しかかっている。◆石破総理だけはマズい… それでもなお、安倍首相は岸田後継を諦めていないとされる。理由は「石破さんだけは絶対に総理にしたくないから」(安倍側近)という。 ポスト安倍では岸田氏が地盤沈下する一方で、首相の「政敵」である石破茂・元幹事長が最右翼に浮上し、新聞の世論調査の「次の総理にふさわしい人」で他に水をあけて1位に位置している。 官邸が警戒しているのは総理・総裁選びと検察の動きが連動することだ。河井克行・前法相と案里夫妻の選挙買収事件をめぐる東京地検特捜部の捜査は、自民党本部から夫妻に流れた1億5000万円の“買収資金”の流れの解明を目指している。ターゲットは自民党首脳部だ。 公選法では、「買収行為をさせる目的をもって金銭・物品の交付を行った者」も「買収交付罪」に問われる(221条)。自民党側で河井夫妻に1億5000万円もの資金を交付すると決裁した者にも捜査が及ぶ可能性があるのだ。 買収の舞台となった昨年の参院選で安倍事務所は案里陣営に4人の秘書を派遣し、案里氏の後援会長だった町議も、克行氏から「安倍さんからです」とカネを渡されたと証言している。それだけに特捜部は巨額の党資金の決裁に安倍サイドがどう関わっていたかを注目しているとされる。 かつて田中角栄内閣の跡を継いだ三木武夫首相は、ロッキード事件が発覚すると政敵の田中前首相を守らずに検察捜査にゴーサインを出した。「今回の選挙買収事件が自民党中枢に波及し、11月危機と重なって次が石破首相になると、“第2の三木”となって捜査を安倍勢力の弱体化に利用しかねない。そうした懸念があるだけに、石破後継を阻止して安倍総理の意向に従う後継者を選ばなければならない」 首相周辺にはそうした警戒の声がある。麻生太郎・副総理の「9月解散、10月選挙」論も石破後継阻止という首相サイドの思惑と一致する。永田町には、解散論の裏に安倍―麻生への「政権禅譲」シナリオがあると囁かれている。「11月危機で退陣に追い込まれる前に、安倍首相が麻生氏に首相の座を禅譲し、麻生内閣が五輪中止など安倍政権の残務整理をする。9月解散で自民党が議席を減らせば総理交代の口実になるし、一度選挙をやれば自民党議員は当面選挙の心配がなくなるから、来年の総裁選では人気のない岸田氏を総裁に担ぎやすい」(自民党関係者) 麻生リリーフ首相の後に、岸田“傀儡”政権をつくるシナリオだ。 そして、自民党の外からは、東京都知事選で圧勝し、“いつ国政に復帰すべきか”とひそかに野心を燃やす小池百合子氏が、自民党の人材不足を象徴する総理選びの迷走を、舌なめずりしながら見つめている。※週刊ポスト2020年7月24日号
2020.07.11 07:00
週刊ポスト
注目新刊4選 直木賞候補作や田原総一朗の戦後日本政治総括
注目新刊4選 直木賞候補作や田原総一朗の戦後日本政治総括
 家での時間が増えている今、良書への関心も高まっているものの、どんな本を読むべきなのか。ブックレビューを多く担当するライターの温水ゆかりさんが選ぶ、新刊書籍4選をヒントにしたい。◆『じんかん』 今村翔吾/講談社/1900円 今夏の直木賞候補の注目作。主家乗っ取り、将軍暗殺などで戦国時代の三悪人とされる松永(弾正)久秀。彼の生涯を信長が夜を徹して語るという夜伽の物語構造にあっという間に引き込まれる。極貧の生家、弟との絆、追いはぎ団の少年首領との出会い、何のために生まれてきたのかという疑問、欲の化身である武士などいらぬとした三好元長への共鳴。いっき読み必至の娯楽作。◆『ポップス大作戦』 武田花/文藝春秋/1600円 レトロな町や路地裏の猫をモノクロで撮ってきた木村伊兵衛賞作家の花さん。ふいに自分に飽き「カラー写真をやってみよう」と決める。真っ赤な薔薇と水色の空、「わ、お父ちゃん」(故武田泰淳)と叫んでしまったインカ風の仮面、廃屋に巡らされた真っ赤なテープ、母(故武田百合子)を丸坊主に剃り上げた思い出。色の胎内を泳いでいるかのような浮遊感で見る者も旅する。◆『戦後日本政治の総括』 田原総一朗/岩波書店/1900円 テレビの勃興期から不倫の部屋が公安の監視下にあった恥辱までを書いた自伝『塀の上を走れ』。その書を政治に特化し、ブルドーザー田中角栄、タカ派中曽根康弘、新自由主義の小泉純一郎や安倍晋三までの流れを鳥瞰で描く。政治は理念ではなく政局(損得)で動く。野党に興味はないと公言する政局フェチの著者の証言は貴重だが、同時にもっと喝を入れて欲しかったとの思いも。◆『鴨川食堂もてなし』 柏井壽/小学館文庫/650円 ただの民家にしか見えない京都の「鴨川食堂」とその奥の「鴨川探偵事務所」。料理雑誌に出した1行広告「食捜します」に目を留め、今日も味の迷い人が訪ねてくる。認知症の入った父が突然言い出した「テキ」とは? 離婚した初老の男が思い出のおやつの味と共に探し出したい女性はどこに? 元刑事の料理人・鴨川流の推理と料理の腕が冴える味の人情ミステリーを6話収録。※女性セブン2020年7月16日号
2020.07.08 07:00
女性セブン
中国に情報が筒抜けになったら自衛官が危険に晒される可能性も(時事通信フォト)
電通と政党の深い結びつき その実態と歴史
 総額769億円の国の持続化給付金事業に関し、再委託された広告代理店最大手・電通が104億円を手にしたことが注目を集めている。今回の問題がなぜ国民の怒りを買っているかといえば、電通が“濡れ手に粟”で懐を潤わせている国家事業の予算が、公金で賄われているからだ。 そもそも官公庁と電通の結びつきの強さは人脈にも現われている。今回の持続化給付金事業を巡る疑惑でも、中小企業庁の前田泰宏長官が米国で開いたパーティーに電通関係者が出席していたことが問題視されているが、“人事交流”も多岐にわたる。 アイドルグループ「嵐」のメンバー・櫻井翔の父親として知られる、元総務事務次官の桜井俊氏は、退任後に電通グループ代表取締役副社長に就任した。一方、6月12日の野党合同ヒアリングで明らかにされたのが、電通が内閣官房に職員4人を出向させていたことだった。選挙戦略を手伝った代理店社員が内閣府などに“天上がり”し、政権の広報・宣伝活動に携わることは珍しくないという。 政党との結びつきも深い。電通は1950年代から自民党の広報戦略に協力していたといわれる。現在に至るまで、衆院選・参院選の政党CMの撮影、スローガン策定、ポスター・リーフレットの作成など自民党の選挙戦略を引き受けてきた。 政界とのパイプの太さで電通が関わったのが、2013年の富士山の世界文化遺産登録運動だ。元電通社員で広報コンサルタントの横山陽二氏が指摘する。「2005年に発足したNPO『富士山を世界遺産にする国民会議』は、中曽根康弘元首相を会長に据えて、静岡県や山梨県などと連携して世界遺産登録運動を展開しました。それ以前から電通には、新入社員全員が富士山に登頂する慣例があった。世界遺産登録に際しては率先して事務局を務めた」『メディアと自民党』などの著書がある東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授の西田亮介氏が指摘する。「電通にとって選挙関連の仕事では自民党や有力政治家との人脈を広げることで、そのパイプや信頼感から省庁や関係者とのつながりを得られるメリットがある」 広告業界では近年、「ネット広告」の割合が増え、従来のマスメディア広告全盛の時代よりも、電通をはじめとする大手代理店のプレゼンスが低くなったといわれるが、政界で時代の流れにいち早く対応した動きが、2013年7月の参院選から解禁された「インターネット選挙運動」に関する働きかけだったという。「日本国内では2013年からネット選挙解禁の機運が高まっていた。複数の関係者の証言によれば、2012年頃から電通は自民党に対して、ネット選挙解禁に向けた提案を行なっていたようです。当時はアメリカのオバマ大統領のネット活用が話題にのぼっており、そうした動きが日本でも起こることに備えた提案だったとされます」(前出・西田氏)『電通巨大利権』などの著書がある博報堂出身のノンフィクション作家・本間龍氏は、電通は安倍政権下での「改憲国民投票」をも新規事業として見据えているのでは、と指摘する。「国民投票の広告宣伝規定は通常の選挙より緩く、『投票日から14日以内のテレビCM放映禁止』以外の規制がない。安倍首相が悲願の改憲に向けて国民投票を行なうとなれば、多額の広告宣伝費を用意する可能性がある」 膨大な税金が投入される事業だからこそ、その流れの正当性や透明性が過程も含めてきちんと検証されなくてはならない。※週刊ポスト2020年7月3日号
2020.06.26 16:00
週刊ポスト
“派閥政治”が失われ自民党内が弛緩、自浄作用が消滅した
“派閥政治”が失われ自民党内が弛緩、自浄作用が消滅した
 新型コロナウイルス問題への対応で右往左往する安倍政権。以前であれば自民党内から後継者の話題があがり、ポスト安倍への動きが活発になるものだった。ところが、新しいリーダーが決まりそうな気配が見られない。派閥がなくなり、「独裁」状態になったことでダイナミズムが失われた政治の不毛について、経営コンサルタントの大前研一氏が考察する。 * * * 新型コロナウイルス問題で安倍晋三政権が右往左往している。対応が後手後手に回り、安倍首相が思いつきの場当たり的な対策を連発して危機管理能力が驚異的に低いことを露呈した。 さらに検察官定年延長問題や「桜を見る会」答弁などで安倍首相の強引な政権運営が取り沙汰され、急激な景気悪化と株安・円高で「経済の安倍」の金看板にも影が差している。 にもかかわらず、どさくさに紛れて、国民の私権を制限できる「緊急事態宣言」を首相が国会の承認なく出せるようにするなど、安倍首相は“独裁者”への道を邁進している。このため、野党だけでなく与党内からも政権批判の声が上がり始めているのだ。 いよいよ「安倍一強」が崩れて“ポスト安倍”の動きが本格化してもよさそうな情勢だが、いかんせん自民党内に有力な後継者候補は見当たらない。 たとえば、安倍首相からの禅譲を期待しているとも言われてきた岸田文雄政調会長は、存在感が薄くて知名度も低い。石破茂元幹事長は、評論家のようなことばかり言っていて、石にかじりついてでも首相になるという気迫が感じられない。菅義偉官房長官は、事実上の「菅派」とされる菅原一秀経済産業相と河井克行法相の「政治とカネ」の問題に伴う辞任、河井氏の妻・案里参議院議員の公設秘書らによる公職選挙法違反事件などで影響力に大きく陰りが出ている。小泉進次郎環境相は、早くも底の浅さが露見した。いずれも、帯に短し襷に長しで“ポスト安倍”としては力不足だ。 従来の日本の政治=自民党政治は「一強」ではなく「派閥(ムラ)」が牛耳り、常に派閥間で熾烈な党内抗争を繰り広げていた。 政権派閥の首相が政策で失敗したりスキャンダルを起こしたりすれば、すぐに他の派閥が蠢いて政権交代の党内圧力をかけ、カラーが異なる別派閥の「領袖」を首相に担いで国民の批判をかわしながら政権を維持してきた。いわゆる「三角大福中」(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘)や「安竹宮」(安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一)の時代であり、当時は派閥が若手の人材を育成する役割も担っていた。 私は退陣後の竹下元首相から夜の会食で有名料亭に呼ばれたことがある。そこには、首相になる前の小渕恵三さんが同席していて、竹下さんは「小渕を首相にしてやってください。彼が首相にならないと、私は死んでも死にきれません」と頭を下げた。竹下さんにとっては後継者の小渕さんを首相にすることが残された自分の使命であり、それが派閥の論理だったのである。それ以前から私は小渕さんと親しかったので、竹下さんに頼まれなくても応援できることは何でもするつもりだったが、その夜の竹下さんの表情には鬼気迫るものがあった。 つまり、かつての自民党の実態は派閥という名の小政党の集合体であり、党内には派閥間のパワーゲームによるダイナミズムがあったのである。組閣人事には派閥の意向が強く反映され、経済や外交などの政策は派閥によって異なり、官僚やマスコミも別々の派閥・政治家とつながっていた。このため派閥同士は絶えず緊張関係にあり、ライバル派閥の政権に対する追及は野党以上に厳しかった。 ところが、今は派閥が弱体化し、単なるサークルのような緩い集団になってしまった。これは小選挙区制導入の影響が大きい。派閥の役割と政治家のスケールが小さくなって派閥抗争がなくなった代わりに総理総裁や幹事長の権限が強くなり、党内の“自浄作用”が失われたのである。 結果、安倍政権下ではロシアとの北方領土問題や北朝鮮の拉致問題など外交的には全く成果がなく、経済的にはスローガンを連発するだけで景気は悪化する一方。憲法改正も実現できず、大々的にぶち上げた政策のほとんどは雲散霧消した。そんな“蜃気楼”のような安倍政権を「歴代最長」まで延命させてしまった。 しかし、今は新型コロナウイルス禍という“国難”で日本政治の貧困と不毛がまさに国家を危機に陥れている。“モリカケ桜”で綻び、コロナで完全に国を誤った方向に導いている安倍政権の暴走を、与党も野党も止めることができない。令和の世に新しいリーダーが降臨することを願わずにはいられない。●おおまえ・けんいち/1943年生まれ。マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社長、本社ディレクター等を経て1994年退社。現在、ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長、ビジネス・ブレークスルー大学学長などを務める。最新刊は小学館新書『経済を読む力「2020年代」を生き抜く新常識』。ほかに『日本の論点』シリーズ等、著書多数。※週刊ポスト2020年4月3日号
2020.03.23 07:00
週刊ポスト
妻に先立たれた元農水相 亡き妻を想い続けて生きる道
妻に先立たれた元農水相 亡き妻を想い続けて生きる道
 名将・野村克也さんの晩年は、「妻・沙知代さんに先立たれた夫の哀しさ」を浮き彫りにしていた。その姿は、世の夫たちにとって他人事とはいえないはずだ。妻を亡くしたら、男はどうやって悲しみを乗り越え、前を向けばいいのか──。 人前で悲しみを見せなかったのは、農林水産大臣などを務めた元衆院議員の島村宜伸氏(85)だ。 妻の多英子さん(享年70)は2012年に内臓疾患で亡くなった。「亡くなる4年前にがんを宣告されました。原発不明の多臓器がんでしたが、家内は弱音も泣き言も一切言わなかった。その頃はまだ国会議員でしたが、闘病中でも選挙があれば全力で支えてくれました。家内がいなければ、私は政治家を続けることができなかったでしょう。 外見上もいたって普通だったので、周囲の誰もが健康だと思い込んでいたはずです。ある日、温泉旅行から帰ってきたら容体が急変して、間もなく息を引き取りました」 突然の訃報を受けた島村氏だが、告別式では気丈に振る舞った。「家内とは歳が9つ違ったんで、僕が先に逝くつもりだったんですけどね……。残念でしたが、これも運命。僕は政治家なのでメソメソ、グジグジはできません。涙は決して見せませんでした。 家内は亡くなる直前、後援会向けに自分の死後についての指示を出し、告別式後の後片付けまで準備を進めていた。亡くなる2週間前には、中曽根康弘先生の奥様の通夜と葬式があったのですが、彼女は体調不良を押して出席し、仏事を済ませました。本当によくできた家内でした」 死の直前まで明るさと陽気さを失わなかったという多英子さん。その姿が目に焼き付いているからこそ、気落ちしていられないのだと島村氏は語る。「まさに陽性キャラというのかな。気遣いもできて、誰からも愛されました。『政治家の女房』として満点。二度と見つけることのできない最高の家内でした。 寂しくないと言えば嘘になりますが、カラッとしていた家内の生き様に応えるためにも、僕は落ち込んでなんていられない。何が起きても、これまで通り、変わらず普通に過ごすこと。それを家内も望んでいると思うのです」 多英子さんの死後、島村氏が地元を回ると、誰もが「寂しい」と口にした。死別から7年経過したいまも、多英子さんを慕う後援会や地元の声は消えない。 そんな声に支えられて過ごす島村氏は、行く先々で妻の生きた痕跡を感じるという。「家内が守った土地ですからね。今でもよく家内の話が出る。地元の後援会はもう、ほとんど家内のコミュニティみたいなものでしたから。話を聞いているだけで、いつも傍にいる気がしてくる。私は本当に恵まれていますよ」 亡き妻を想い続けることもまた、生きる道なのかもしれない。※週刊ポスト2020年3月13日号
2020.03.08 07:00
週刊ポスト
(時事通信フォト)
安倍首相 総裁4選ではなく「任期1年延長」の秘策あり
 昨年12月29日、安倍晋三・首相はBSテレビ東京の番組『NIKKEI 日曜サロンSP』に登場し、ポスト安倍について岸田文雄・政調会長、茂木敏充・外相、加藤勝信・厚労相と並べて菅義偉・官房長官の名前を挙げた。首相が菅氏を後継首相候補の1人に名指ししたのは初めてだ。「菅さんはその言葉を聞いてゾッとしたのではないか」と語るのは自民党ベテラン議員だ。「次期総裁選への出馬に意欲満々な岸田、茂木、加藤の3人は総理に名前を出してもらって喜んでいる。しかし、菅さんはマスコミではポスト安倍の有力候補と報じられていても、本人は一貫して『総裁選に出る気は全くない』と否定してきた。総理に忠誠心を疑われないために神経質なほど総裁候補と言われることを嫌がっている。 安倍総理はそれを百も承知のはずなのに、IR汚職事件や側近の河井夫妻の公選法違反などで菅さんがバッシングを受けている微妙な時期に総裁候補として名前を挙げた。総理の真意がどうであれ、うがち過ぎた見方をすれば、“こいつは総理を狙っているぞ。もっと叩いていい”とけしかけているように聞こえる」 優勢に立ったかに見える安倍陣営にも決定的な弱点がある。安倍首相が後継者候補に挙げた岸田氏、茂木氏、加藤氏の“イエスマン3人衆”は首相にとって忠臣ではあっても、菅陣営の総裁候補である河野太郎氏や小泉進次郎氏と比べると国民の支持が圧倒的に低いことだ。自民党竹下派の中堅議員はこういう。「次の総理・総裁は国政選挙6連勝の安倍さんに代わる総選挙の顔になれる人でなければならないが、いくら安倍さんが推しても、名前の挙がった3人の誰が総理でも自民党は選挙に負ける。だから菅さんや二階さんは選挙に勝てる総裁を擁立しようとしている」 盟友の麻生太郎・副総理が、文藝春秋に〈残り二年を切った総裁任期で、憲法改正案を発議し、国民投票に持ち込むのは政治日程上、非常に厳しい。安倍総理が本気で憲法改正をやるなら、もう一期、つまり総裁四選も辞さない覚悟が求められる〉(文藝春秋2020年1月号)と安倍4選論をぶち上げた背景には、後継者候補が小粒だという危機感がある。 だが、総裁「4選」を可能にするには自民党規約の改正が必要で、ゴリ押しすれば党内の反対論が高まり、権力闘争の火に油を注ぐことになりかねない。そこで安倍-麻生陣営内では、安倍首相の総裁任期を特例で「1年延長」するという秘策が練られている。「東京五輪の後、安倍首相が『国会で憲法改正の発議をすべきか国民の意見を聞く』と解散・総選挙に踏み切る。勝利すれば、総裁任期を2022年まで1年だけ延長し、その間に国会での憲法改正発議と国民投票を実施し、総理は改憲を花道に退陣する」(安倍側近)──という計画だ。「総裁任期の1年延長」はルール上はイレギュラーだが、かつて中曽根康弘・首相がやったことだ。 中曽根氏は総裁任期満了の3か月前に突然衆院を解散、衆参ダブル選挙に大勝利し、その功績をテコに党内の反対を押し切って総裁任期の1年延長を認めさせた。しかも、1年後に権力を維持したまま退陣することで、後継者を決める総裁選では「中曽根裁定」と呼ばれる後継指名にも成功した。ちなみにこの時、最も総理の座に近いと見られながらも後継指名されずに、総理になり損なったのが安倍首相の父・晋太郎氏だった。 安倍首相がこの「中曽根方式」を踏襲すれば、権力維持という面では4選より効果的だ。 ポスト安倍の後継選びで権力闘争を仕掛けた菅氏は、任期延長で総裁選が先送りされると勝負をかけることができないまま“総理に弓を引く”形に追い込まれ、泣きを見ることになる。 80歳の二階氏も総裁選がなければ、次の内閣改造で幹事長を交代させられ、引退に向かう可能性が高い。 そして安倍首相は、「憲法改正を成し遂げた総理」として余力を残して退陣することで、「安倍裁定」で後継者を指名する力を得ることができる。「総裁任期1年延長」は安倍首相と麻生副総理にとって、総裁選を実施せずに菅―二階陣営という政敵を弾き飛ばす謀略といっていい。 これが永田町で起きている権力ゲームの深層だ。※週刊ポスト2020年1月31日号
2020.01.22 07:00
週刊ポスト
大阪に根ざす「反権力気質」とは(時事通信フォト)
ヤクザと大阪の関係 江戸幕府への「反権力気質」がルーツ
 いまでこそ大阪のヤクザ社会では山口組が圧倒的な影響力を持つが、1960年代に神戸から山口組が本格的に進出するまでは、群雄割拠の時代だった。ミナミを縄張りとする南一家や博徒の流れを汲む酒梅組、さらに互久楽会や松田組など大組織に属さない独立系の組が数多くあった。 大阪に多くの組織が生まれた背景を、ヤクザに詳しいフリーライターの鈴木智彦氏はこう説明する。「江戸時代の大阪は天下の台所と言われ、全国で最も金が集まる都市でした。そういう場所で賭場を開くのが大きなシノギでしたから、自然とヤクザが乱立したわけです。また、彼らは差別され行き場を失なった人たちの受け皿として機能した側面もあります。 商業都市らしく大阪のヤクザはリアリストです。既得権としての縄張りにこだわらず、実力次第でどこにでも出て行く胆力を重視する気風がある。おかげで“一匹狼”が成り立つ要素が生まれ、多くの中小組織が入り乱れるようになったという経緯があります」 江戸時代の大阪は、反権力の街でもあった。豊臣秀吉を「太閤さん」と呼んで慕った大坂の町人たちは、豊臣政権を倒して天下を握った江戸幕府への反抗心を潜在的に持ち続けた。こうした伝統がヤクザを容認してきた背景にあるのかもしれない。 大阪が生んだヤクザの代表が「殺しの軍団」と怖れられた柳川組だ。初代組長の柳川次郎の本名は、梁元ソク(ヤン・ウォンソク)。釜山生まれの在日韓国人である。 柳川は終戦後の混乱期の大阪で在日の愚連隊を率いて暴れ回り、1958年に起きた西成の鬼頭組との抗争では、わずか8人で日本刀を手に殴り込みをかけ、100人の組員を相手にした死闘を制したことで名を馳せた。 柳川組が本拠地としたのは、梅田を中心とする大阪のキタ。鉄道各社が乗り入れる梅田は大阪きってのターミナルであり、戦後の阪神デパートの裏には巨大な闇市が広がっていた。ここを押さえたことで、柳川組は巨大な資金力を得たのである。 1959年に山口組の傘下に入り、明友会など反山口組の組織の壊滅に貢献。その後は北陸や山陰、東海、北海道と進出を続けた。だが、あまりの急拡大に警察の徹底的な取り締まりの対象とされ、1969年に解散へ追い込まれた。 その後、柳川は韓国政界にも深く繋がり、日韓外交でも暗躍。1983年に中曽根康弘が日本の首相として初の公式訪韓をした際には、その地ならしを柳川が担ったとも言われる。柳川次郎を戦後混乱期の大阪を代表するヤクザとすれば、バブル時代の熟れ切った大阪で経済ヤクザの代表格として名を馳せたのが、山口組の若頭だった宅見組組長の宅見勝である。 山口組きっての武闘派として知られた山本健一に見出され直参に抜擢されると、1989年に渡辺芳則が山口組の五代目に就任するのに大きく貢献。ナンバー2にあたる若頭となった。ミナミを拠点とし、不動産バブルに沸く大阪で数多くの地上げを手がけ、抜群の資金力を誇った。前出の鈴木氏が語る。「全盛期の宅見組の勢力は北海道から九州まで全国に及び、傘下には多数のフロント企業や右翼、総会屋がいました。金融や不動産などカタギの会社にも複数関与し、表社会に強い影響力を持っていた。その一端が垣間見えるのが、建築業界です。商社やゼネコンが大阪で大型工事を計画する際には、事前に宅見組長に話を通すのが暗黙のルールになっていたほどです」 その宅見は1997年に山口組内部の勢力争いにより、新神戸駅そばのホテルのラウンジで射殺された。以後、山口組は名古屋の弘道会が主導権を握る体制へと移行したが、それはトヨタをはじめとする名古屋経済に大阪経済が後塵を拝するようになった時期と符合する。 ミナミの歓楽街に近い島之内といえば、かつては日本一の組事務所の密集地と言われた場所だ。それがいまや、中国をはじめ海外からの観光客を目当てにする安宿街へと変貌した。大阪のヤクザも時代の変化にさらされている。(文中一部敬称略)◆構成/竹中明洋(ジャーナリスト)※週刊ポスト2020年1月17・24日号
2020.01.13 16:00
週刊ポスト
【追悼2019】金田正一さんや内田裕也さんら歴史を刻んだ人々
【追悼2019】金田正一さんや内田裕也さんら歴史を刻んだ人々
 令和という新たな時代の始まりとなった2019年。今年も多くの人が永遠の眠りについた。政治家、スポーツ選手、ミュージシャンなど、多くの人の記憶に残る人たちだった。(男性編)■中曽根康弘(元首相、享年101) 1947年、衆院議員に初当選。1982年、第71代内閣総理大臣に就任。在職中に国鉄、電電公社、専売公社を民営化。1997年、大勲位菊花大綬章を受章。11月29日死去。■金田正一(元プロ野球選手、享年86) カネやんの愛称で親しまれた前人未踏の400勝投手。1951年から14年連続20勝を記録。1955年には来日したヤンキースのミッキー・マントルから3三振を奪う快投。1965年に巨人に移籍、1969年通算400勝を達成し引退。1974年にはロッテ監督で日本一に。10月6日死去。■萩原健一(歌手・俳優、享年68) ザ・テンプターズのボーカルとしてGSブームを牽引。ドラマ『太陽にほえろ!』『傷だらけの天使』で俳優としても人気に。3月26日消化管間質腫瘍により永眠。■内田裕也(ロック歌手・俳優、享年79) 1966年のビートルズ来日公演では特別編成のバンドで前座を務め、「ザ・タイガース」生みの親だった。昨年9月15日に没した妻・樹木希林を追うように3月17日肺炎で永眠。■堺屋太一(作家、享年83) 1976年、小説『団塊の世代』がベストセラーに。1998年から約2年間、小渕恵三内閣で民間人閣僚として経済企画庁長官を務めた。2月8日多臓器不全で死去。■ケーシー高峰(漫談家、享年85) 日本大学医学部に入学するも、芸能活動の夢捨てがたく芸術学部に転部。1960年代後半から下ネタを取り入れたお色気医事漫談で人気に。4月8日肺気腫で没した。■高島忠夫(俳優・司会者、享年88) 日本一の仲良し芸能一家の大黒柱が静かに旅立った。『ごちそうさま』『クイズ・ドレミファドン!』『アメリカ横断ウルトラクイズ』などで司会を務め、「イェーイ」の決め台詞でお茶の間を盛り上げた。晩年は闘病生活が長く続き、6月26日老衰で永眠。■和田誠(イラストレーター・ 映画監督、享年83) たばこ「ハイライト」のデザインで一躍人気イラストレーターに。その後監督した映画『麻雀放浪記』『快盗ルビイ』が大ヒット。妻は料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミ。10月7日肺炎で死去。■安部譲二(作家、享年82) 名門麻布に入学、英国留学、暴力団組員、JAL客室乗務員などを経て、1986年刑務所での実体験を描いた小説『塀の中の懲りない面々』がベストセラーに。9月2日急性肺炎で死去。■竹村健一(評論家、享年89) パイプを片手に鋭い視点で世相を斬り、「デリーシャス」などの流行語も生んだ。口癖は「だいたいやねぇ」。著書は数百冊にのぼる。7月8日多臓器不全で死去。※週刊ポスト2019年12月20・27日号
2019.12.14 07:00
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