その司馬に韓国取材が持ち上がったのは1985年のことである。『街道をゆく』は、1971年から1996年まで続いた「週刊朝日」の紀行連載である。列島各地ほか台湾やニューヨークなど各国をルポルタージュした。このとき司馬が望んだ取材地は、済州島である。ただでさえ司馬の訪韓は快く思われないだろうに、四・三事件など韓国現代史の舞台となった同島での取材は困難が予想された。実際ビザが出ない。
「柳川と会ってみたらどうか」
そう助言したのは、親交が深かった歴史家の姜在彦だ。姜は在日社会に大きな影響力を持っていた総合誌「季刊三千里」の編集者でもあった。実は、姜もかつて柳川の力で韓国を訪れたことがあった。姜の相談を受けたMが柳川に司馬の意向を伝えると、二つ返事で会おうということになった。待ちあわせは新宿の京王プラザホテルだった。しかし、待てども待てども司馬は姿を見せない。Mが回想する。
「30分くらい待ち、『もうけえへんから帰ろう』という時に、姜さんと司馬さんが歩いてきた。どうも待ち合わせ場所を勘違いしてたらしいんやけど、それを知った会長は『お前の手違いやろう』とカンカンになって私に怒り出した。それを見た司馬さんも『そんなことで怒るな』いうて怒りだす。もう無茶苦茶でしたよ(笑)。
姜さんと私が必死になって二人をなだめ、とにかく高輪のコリアンハウスで夕食をしようとなった。4人でタクシーにぎゅうぎゅう詰めで向かううちに、どちらからともなく『あんたも大概短気やな』と言うと、二人はお互い笑みがこぼれてね、それで意気投合したんです」
柳川の尽力によってビザは無事に発給。司馬は姜在彦とともに済州島にわたり取材は果たされた。