弟を仲介役にしながら全斗煥とも親交を重ねた柳川は、1984年には大統領直属の諮問機関である平和統一政策諮問会議の委員となった。朝鮮半島をめぐる安全保障上の理由から韓国との関係を悪化させたくない日本政府にとっても、柳川は無視できない存在となっていた。
1983年に実現した、中曽根康弘による戦後初の訪韓にも柳川の「お膳立てがあった」と語る関係者も多い。中曽根訪韓の詳細は次号に譲るとして、この時期の柳川の威光を目撃したのが、写真家・山本皓一である。
中曽根訪韓と同じ1983年のことである。北朝鮮に取材で渡航した過去が問題視されたのか、韓国での取材を希望する山本にどうしてもビザが下りなかった。そこで知人に紹介されたのが柳川だった。
「柳川さんに韓国で取材したいと訴えると、『これから行けるか』と聞いてくる。『行けます』と答えると、次の日にはビザを取得せずに柳川さんと一緒に出発することになりました。
金浦空港に着くと驚いたことに、いきなり貴賓室に通され、パスポートを預けてお茶を飲んでいると入国手続きが済んだといわれた。空港から定宿だという最高級の新羅ホテルまでは青信号でノンストップ。ホテルのスウィートルームでは灰皿からグラス、ガウンに至るまで金文字で柳川さんの名前が書いてあり、この国では特別待遇なんだと実感しました」
1988年に開幕したソウル五輪は、南北の体制間競争で韓国が圧倒的に優勢に立ったことを証明するものとなった。開会式で柳川に用意された貴賓席は大統領からわずか3列後ろ。その権勢は、頂点を極めた。しかし、韓国の民主化とともにやがて陰りが見えるようになる。
【PROFILE】 たけなか・あきひろ/1973年山口県生まれ。北海道大学卒業、東京大学大学院修士課程中退、ロシア・サンクトペテルブルク大学留学。在ウズベキスタン日本大使館専門調査員、NHK記者、衆議院議員秘書、「週刊文春」記者などを経てフリーランスに。近著に『沖縄を売った男』。
※SAPIO2018年7・8月号