「まず、より江に関しては、私と同郷の長塚節(たかし)が彼女に宛てた手紙が全集に収録されていますし、節は清僧のようであったという彼女の追悼文が、藤沢周平に『小説長塚節 白き瓶』を書かせたという事実もあります。
一方彼女の夫・久保猪之吉は、東京帝大を卒業後、ドイツ留学を経て福岡医大(現・九大医学部)初の耳鼻咽喉科教授を務めた人物。しかも実は明治31年刊行の国語辞典『ことばの泉』にも関与していたと知った時点で、この小説はもう完成したも同然でした。編纂者の落合直文は彼の一高での恩師という縁もあり、猪之吉が医学用語を監修したのでしょう。
その猪之吉とより江が夫婦なら、漱石、鏡子、子規や言葉についての話も書ける。より江の家族関係や記録にない部分は全て私の創作です。でも吉川英治が漢文二百字しか残っていない記録から傑作『宮本武蔵』を創作したように、巧みな想像と上手につきあうのも私は豊かさの一つの要素だと思うのです」
まず一章「いっぷり」は漱石とは一高以来の親友で、ここ上野家の新しい下宿人となった正岡升=子規との黒猫を巡る会話で始まる。より江は幼い頃から動物の言葉がわかる少女で、そんな彼女に俳句を勧めてくれたのも、升だった。
明治28年春、松山に赴任した漱石の2つ目の下宿が『坊っちゃん』の萩野家のモデルでもある上野家だ。より江は母親が病身のため祖母のいる上野家に預けられ、特に升がいた2か月は彼の俳句仲間に囲まれて育つ。また祖母曰くいっぷり=変人の漱石はこの頃、東京の官吏の娘と見合いをし、相手の写真に見惚れる彼を升とからかったものだ。が、ほどなく升は結核の治療で上京。漱石も熊本・五高への転任が決まり、より江はセンセを港まで見送った。