◆元古本屋だから書けたシーンも
自身は集団就職で上京し、月島の古書店の小僧や番頭修業を経て独立。小学生の頃に移動図書館で借りた全集をルビ付きで読み、「漱石って面白い!」と感激して以来のファンだという氏の仕事場には漱石自筆の書簡も飾られ、「元古本屋だから書けることもある」という。
「例えば舒文堂で猪之吉が目を付けた本を寺田寅彦に先に買われちゃうシーンは私もよく見かけた光景です。本、特に古本というのは人と人を結び付けるもので、単なる品物じゃないんだね。
漱石の手紙も今は『一行3万円』で取引されていて、年々相場が上がっている。一方鏡子夫人の文章も筆跡、エスプリ共に夫そっくりで、いかにもタダモノではないのですが、文豪の妻の手紙は値段がつかないから捨てられてしまうんです。でもあの神経質な夫に添い遂げ、あれだけの作品を書かせた功績を評価しないのは絶対おかしいし、鏡子は決して弟子たちが言うような悪妻ではなかったと私は思う。
より江との関係にしても、鏡子の手記に1ページほど記述があるだけなのですが、より江が漱石宅へ行く時は妙な噂を立てられないよう女学生の格好で行ったとか、面白い話も結構あってね。男社会で神格化され、今では手紙の相場まである漱石を一個人に引き戻し、人と人を本が繋ぎ、言葉が繋いだ豊かな時代を、私は最も書きたかったんです」