〈その時だった。センセの足元から黒猫が姿を現わし、より江に手を振った。より江はあっと叫び、猫を呼ぼうとした。呼ぼうとしたが、猫には名前が無い〉……。
こうして猫共々(?)下宿を去った漱石と彼女は便りを交わし、ついに夏休みに祖父と熊本を訪れることに。が、手土産を探しに行った「古書肆 舒文堂(こしょし じょぶんどう)」では、チョンマゲ姿を貫く店主と祖父が喧嘩になりかけたり、寺田寅彦なる五高生に後を付けられたり。挙句、腹痛で倒れた祖父は卒業旅行中の一高生一行に腸チフスと診断され入院。幸い誤診で済んだが、この診断をした張本人が仲間に〈ドクトル〉と呼ばれる猪之吉だった。
早合点を詫びる猪之吉と高等女学校入学を目指すより江はいつしか文通を始める。医学部に学ぶ傍らで恩師の辞典編纂も手伝う彼のために、彼女は祖母世代しか使わない古い表現や珍しい方言を書き送るようになる。〈より江にはラブレターのようなものであった〉〈美しい言葉だと久保にほめられると、自分が美しいと賞讃されたように、天にも昇る心地だ〉
「むろんここも私の創作で、手紙だけが通信手段だった時代らしい恋愛ですよね。
とにかく『ことばの泉』が素晴らしいのは、俗語や方言にも目を向けたこと。明治というのは藩ごとにバラバラだった日本語を国語として作り直した時代でしょ。そんな中央集権的な動きと、周縁の言葉に着目する動きが両方あったのがまず面白い。『広辞苑』の新村出や西洋の概念を輸入翻訳した漱石たちとも全く方向性が違う。そうした視点を日本に居ながら持ち得た落合は一種の天才ですし、そこに猪之吉だけでなく妻も関わらせたらどうかと、妄想を膨らませてみました」