本作の着想の一つになったのが、松井が子供の頃に読んだ童話として作中にも登場する、あまんきみこ作『車のいろは空のいろ』(1968年刊)だ。童話に出てくるタクシー運転手・松井さんに憧れ、ドライバーとなった彼は、今の会社でようやく「夜空の色」を思わせる濃紺の車と出会う。
「『車のいろは空のいろ』は、昔は教科書にも載っていた有名な童話で、僕はこれを主人公の松井さんがいろんな乗客を乗せる連作短篇集として読み、幼心に感銘を受けた覚えがあるんです。
もう一つは、バブルの頃、知り合いのスタイリストさんから聞いた話で、撮影用の小道具を探す時に、電話一本で来てくれて物凄く頼りになる運転手さんがいたそうです。いつかその話を大好きな童話のパスティーシュ(作風模倣)的に書きたいと思っていました」
〈時計が一時を打った〉と書き出される第1話はその名も「びわ泥棒」。深夜営業の店もめっきり少なくなった東京で明日の撮影に使うびわを探し回るミツキは、新聞配達員で〈カラス博士〉の異名をとる恋人〈浩一〉から、確か街路樹にカラスが熟すのを待つびわの木があったとの有力情報を得る。
さっそく現場に向かうと、頭上には黒い人影が。思い切って声をかけたミツキに、その美しい声を持つ女性は言った。〈びわ泥棒よ〉──。さらに「午前四時の迷子」「十八の鍵」「ベランダの蝙蝠」等々、12篇の一見奇妙な物語は点から線、面へと、東京の夜を写し取っていく。
中でも秀逸なのは、一見広大な街が実は思わぬ形で繋がっている事実に気づかせてくれること。12年前に失踪した可奈子の弟〈レン〉。女4人で食堂〈よつかど〉を営む〈アヤノ〉が、かつて思いを寄せた常連客〈田代〉──。彼らは今は会えずともどこかにはおり、松井やミツキや下北沢の古道具屋〈イバラギ〉らが介在することで、その距離は俄然近づいたりした。松井は思う。〈この街の人々は、自分たちが思っているより、はるかにさまざまなところ、さまざまな場面で誰かとすれ違っている〉〈気づいていないだけなのだ〉と。