「あの日の戦闘では、B29よりも確か100mか200mほど高い高度をとって真正面から突進したんです。体当たりの瞬間はよく覚えていませんが、なんだかその衝撃で操縦席から放り出されてしまって……。
落ちてゆく途中で意識を取り戻したんです。そして落下傘が開いているかなと恐る恐る見上げたら、開かずにくるくる回っていたんですよ。落下傘の紐が引っかかっていたんです。落下傘の紐のもつれを直すには相当な力が必要で、思わず『神様、助けてください』なんて叫んでいたんですよ。それで両腕を思いっきり伸ばして3回ほど左右に回転しながら、なんとかもつれを直したんです。
ちょうどそのとき、地上から『ボー』という汽笛の音が聞こえてきましてね。そうしたら、空から降りてくる兵隊さんがこんなこと言ってるのを地上の人たちに聞かれたら笑われるぞ、と急に冷静になって黙って降りたんです」(板垣軍曹)
なんとか無事に落下傘が開き、千葉県印旛沼付近に着地した。農家で応急手当てを受けた後に列車で調布基地に戻ったという。
その他、この日の戦闘では、「はがくれ隊」の隊長・四宮徹中尉がB29に後方から体当たりして尾翼をもぎ取って撃墜した。自機も主翼の半分を失ったが、片翼で飛行して帰還した。
さらに中野松美軍曹(当時伍長)は、印旛沼北方上空でB29に後下方から接近して真下に入り込み、操縦桿を引き上げて上昇したところ、自機のプロペラで尾翼左水平安定板を砕いたうえ、B29に“馬乗り”になった。こうしてB29は墜落し、自機もエンジンが停止して滑空状態になったが、茨城県稲敷郡太田村の水田に不時着して無事だった。
この武勲により、板垣・中野両氏には「武功徽章乙」が授与され、揃って軍曹に昇進し、「はがくれ隊」は「震天制空隊」と改称された。