柳川もまた、力道山死後に、その弟子のアントニオ猪木や金一らを支援した一人である。生前の力道山とは、同じ在日として親しく、柳川組解散前の1961年には、力道山率いる日本プロレスの奈良での興行を取り仕切ったこともある。
〈押し寄せる人、人、人…。長蛇の列が続く。警官、係員が汗ダクの整理。試合開始前に満員札止めとなった。館内は押すな、押すなの大混雑。見渡す限りの人の波…。観衆八千人、超満員。(中略)館内が一瞬静まりかえったのは、日韓両国の国歌演奏の時だ。さあー、決戦のゴングだ〉
1975年3月にソウルで行われた猪木対金一の一戦を伝える『プロレス』の記事だ。猪木ら新日本プロレス一行は、釜山から始まり、大邱、大田、光州を経てソウルへと回った。
「入りきれない客が外で会場を何重にも取り囲んどった」
柳川とともに同行し、大阪でボクシングの興行師として知られた梨本隆夫が、その熱狂ぶりを語る。
「釜山で初めてリングに上がる直前、柳川会長にリング上の作法を教えてあげました。まず、リングの真ん中に立って、それから四方に順番に頭を下げて、と。そしたら、釜山の観客は『ヤクザの親分が足を洗って祖国に恩返しをしにきた』いうて、えらい盛り上がりましてね」
ソウルでの猪木と金一との試合は、金一が得意技の頭突きを繰り出すたびに「キムイル」「キムイル」の大合唱となったが、猪木が足四の字固めで逆襲しそのまま場外に転落。リングアウトの引き分けとなった。