「行くと、大きなダイヤの指輪を取り出して、これを猪木の女房にあげるという。でも、受け取るわけにいかない。柳川さんは『おまえも強情なやっちゃなあ』と呆れてました。『他にほしいものないんか』と言うので、ならばと『会長の背中に大変立派なものがあると聞いています。ぜひ拝ませて頂けませんか』と頼みました。柳川さんは『おう』と頷いて上着を脱いで見せてくれましたよ。見事な観音様の入れ墨でした。私は日蓮宗の坊主の息子だから自然とお経を読み上げ始めると、柳川さんも上着を脱いだままじっと待ってくれてね。喜んだ柳川さんは自筆の般若心経の写経を持たせてくれましたよ」
韓国興行から3か月後のことだ。日本を訪れた金一は、予期せぬ騒動を起こすことになる。金一は、スポーツ紙上で、極真会館の大山倍達への挑戦状を発表したのだ。大山が毎日新聞に寄せた手記のなかで、「力道山すら勝てなかったレスラーに米国修行中、勝利した」と書いたことがきっかけだった。李王杓はいう。
「師である力道山先生が侮辱されたと感じた金一先生は怒って『俺と勝負しろ』と言い出し、日本のメディアがそれを煽った。それを『そんな騒ぎを起こすな』と取りなしたのが柳川さんでした。柳川さんが仲裁に乗り出したのは、大山に泣きつかれたからではないでしょうか。金一先生は骨が頑丈で、スパーリングも滅法強かった。極真空手も強力な足技をもつとはいえ、プロレスのような総合格闘技ではない。闘えば歯が立たなかったはず」
一方、大山の弟子だった士道館館長・添野義二の見方は全く違う。
「大木(金一)にすれば予想以上の大騒ぎになってしまい、ひっこみがつかなくなっていたはず。たった一人で極真会館に太刀打ちできるわけもなく、柳川さんに説得されて逆に助かったんじゃないかな。でも、実はあの時、大山先生は大山先生で、聖路加病院に入院しようかなんて言ってたんだよ(笑)。先生は都合悪くなると、きまってあそこの病院に入っちゃうの」