◆理不尽な苦しみにも「意味がある」
ほとんどの被収容者の心を占めていた考えは、収容所生活で生き残ることができるかどうかであり、生き残れないのであればこの苦しみのすべてには意味がない、ということだった。ところがフランクルは、理不尽な強制収容所の苦しみにも「意味がある」と考えていた。アントノフスキー博士が、首尾一貫感覚の一つに「有意味感」を挙げたのも、こうした考え方が参考になったものと思われる。
〈行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ〉
「フランクル氏は、『苦しむこと』そのものにも意味があると考えました。それは、首尾一貫感覚における『有意味感』の最も深い部分であると思われます。
フランクル氏は、『まっとうに苦しむこと』は、それだけで精神的に何ごとかを成し遂げることであり、それを選択することは、人生の最期の瞬間までほかの誰も奪うことのできない人間の精神的自由であるとしています。そして、『まっとうに苦しむこと』により、人生は息を引きとる最期の瞬間まで意味深いものになるのだと説いています」
苦しい出来事に直面しても、その出来事に対してどのように対応するかは自分自身の選択によるものであり、選択しだいで人生に意味を持たせることができる、とフランクルは言う。そんな彼の精神的な強さの背景には、「把握可能感」「処理可能感」「有意味感」という首尾一貫感覚の高さが見てとれる。
「仕事で思うような結果を残せない」
「病気や障害で悩んでいる」
「受験に失敗して何もかもやる気がなくなった」……
そうした苦悩や不安は、誰の身にも起こり得る。そんな時、人は大きく2つのタイプに分かれると舟木氏は言う。