パワー全盛のメジャーで、イチローの「走攻守」に渡る活躍は異彩を放った。内野の守備体系にプレッシャーを与え、バッテリーは打席と塁上にも極限の集中力を使い、フィールドのどこにいても警戒しなければいけない存在になった。2004年にメジャー新記録の262安打をマークし、2度目の首位打者。2001年から2010年まで史上初となる10年連続200安打という金字塔を打ち立てた。守備の栄誉であるゴールドグラブ賞、そして、オールスターには10度ずつ選ばれた。
「こんなものかな、という感覚ですかね。それは200本もっと打ちたかったし、できたと思うし。(チームが)1年目100勝して、2、3年目まで93勝して勝つことは大変でないと思ったが、勝つのは大変なことだった。この感覚を得たことが大きなことだった」と、19年間でポストシーズンはわずか1度だけの出場となり、勝つことの難しさだと述懐した。
イチローの言葉に、エッジが立ってきたと感じたことがあった。2009年の第2回WBCの決勝の韓国戦。延長10回、不振にあえいでいたイチローはセンター前に決勝タイムリーを放ち、日本を2連覇に導いた時だ。「やっぱりボクは(なにか)持ってますかね?(決勝打のときは)神が降りてきました。気持ちよかったです。ほぼ(エクスタシーに)イキかけました」。この頃から、イチローの言葉の節々に、人間味がより加わったように感じた。
選手としての曲がり角は、2012年7月23日だった。前年の成績は184安打で、打率2割7分2厘で、シーズン200安打、打率3割、オールスター出場、ゴールドグラブ賞獲得が10年でストップ。イチローは、若手2投手とのトレードで、ヤンキースへ電撃移籍。ユニホームの背番号は「31」になった。
過去に引退を考えたことよりも、「クビになるのではないかな」と心配した日々があったという。「毎日そんな感じでした。ニューヨークは特殊な場所です。マーリンズも特殊な場所です。毎日そんなメンタリティーで過ごしていたんです。クビになる時はそうなるだろうと思っていたんで」。ヤンキース時代は、「NYは厳しい所だったが、やればどこよりも熱い思いがある」と振り返ったが、ワールドチャンピオンになるためのパズルのピースの一つでしかなく、悲願の世界一は遠かった。
2015年には、マーリンズと1年契約。ベンチを温める日々。代打や守備要員という起用法も経験した中で、日々の準備は変わらずに続けてきた。6月15日のパドレス戦で2安打し、ピート・ローズの持つメジャー通算安打記録の4256本を抜くと、同8月7日のロッキーズ戦では、史上30人目のメジャー通算3000安打を達成。レジェンドの仲間入りを果たした。
「成功かどうかはよく分からないですよね。全く僕には判断ができないから、僕は成功という言葉が嫌いなんです。メジャーに挑戦するということは大変な勇気だと思うんですけど、あえて成功と表現しますけど、成功すると思うからやってみたい、それができないと思うから行かないという判断基準では後悔を生む。やってみたいなら挑戦すればいい。その時にどんな結果が出ようとも後悔はでない。基本的にはやりたいと思ったことに向かっていった方がいいですよね」
成功の基準など、個人の記録や優勝回数では表せない。数字以上のモノが28年間の野球人生でハッキリと見えてきたから、そう口にしたのだろう。
彼が残した言葉で、秀逸だったのが、次のフレーズだ。
「(4000本安打について)いい結果を生んだことを誇れる自分ではない。誇れることがあるとすると、4000のヒットを打つには、8000回以上悔しい思いをしている。それと常に自分なりに向き合ってきた事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思います」
陽ではなく、失敗という陰に光を当て、そこをどうすれば、変えられるか、にこだわってきたのだろう。そうい小さな積み重ねが、前人未到の領域に立ったイチローの真価だったと言える。