1979年7月、恆さんが在米日本大使館公使に就任し、再渡米した雅子さまはマサチューセッツ州立ベルモントハイスクールの2年生に編入した。
8年あまり日本社会で暮らした雅子さまは、競争の厳しいアメリカの高校に入ると猛勉強をされた。いつしかアメリカの友人たちは、雅子さまを「ハードワーカー・マサコ」と呼んだ。
「もともとできた英語はさらに上達して、地元紙が年に数回掲載する『成績優秀者』の欄の常連でした。『秀才』を意味する『ブレイン(BRAIN)』から、“ブレイン・マサコ”というニックネームもつけられました」(前出・皇室ジャーナリスト)
専念したのは勉強だけではない。雙葉時代から熱中していたソフトボールをハイスクールでも続けて、強打の4番としてチームを引っ張った。地元新聞にこんな記事が出たこともある。
《ベルモントハイスクールが高校のソフトボール大会で、好成績を収めた。勝因は、スラッガー・マサコが、ヒットを打ったことだ》
1981年に名門ハーバード大学経済学部に入学し、家族と離れてセイヤーハウスと呼ばれる寮生活を始めた。
在学中は先輩とともに「日本文化クラブ」を創立し、日本文化の紹介に努めた。ハードワーカーとブレインぶりは変わらず、卒業論文は成績優秀な少数の学生に贈られる「マグナ・クム・ラウデ賞」を受賞した。
ハーバード大を卒業後の1986年4月には合格率3%の難関を突破して東京大学法学部に学士入学し、同年10月、外交官試験に合格する。翌年4月、外務省に入省して経済局に配属された。
「入省直後から、国際会議の準備や語学研修などの激務が始まりました。週2~3回の午前様は当たり前で1週間の残業時間は50時間を超えましたが、雅子さまはいつも元気に業務を続けられました。省内では周囲から、『眠らなくても大丈夫』『スタミナは底知れない』などと高く評価されました」(前出・皇室ジャーナリスト)
この頃につけられたニックネームは、「タフネス・マーちゃん」だ。
「1986年に男女雇用機会均等法が施行されて、働く女性が注目を集めた時代。外務省キャリアの雅子さまがマスコミ取材を受けられることもありました。取材中の雅子さまは、『午前2時に帰宅したら“今日は早いね”と母に言われました』などとユーモアを交えて飾り気なく語り、輝かしい経歴を誇示する素振りは見られませんでした」(前出・皇室ジャーナリスト)
※女性セブン2019年5月30日号