スイス渡航に向けて、急ピッチで準備を進めた。友人や家族との別れも済ませた。家族の1人は、翻意を促したという。しかし、小島さんはこう言った。
「私は思い残すことがないんだよ。行きたいところも行ったし、食べたいものも食べた。だから悲しまないでちょうだい」
11月24日早朝、小島さんは退院し、日本を発った。
◆「人間なんていつ死んでも今じゃないような気がするの」
翌25日にスイス・チューリッヒ空港に到着し、バーゼルのホテルに向かった。そこから安楽死に臨むため、医師たちの面接を受ける彼女の様子は、『NHKスペシャル』でも放送された。特に反響が大きかったのは、プライシック医師からの言葉だ。
「(ほう助までの)2日間に気持ちが変わったら言ってほしい」
同行した姉たちがこのまま妹を旅立たせていいのかと逡巡する場面である。小島さんは「人間なんていつ死んでも今じゃないような気がするの」と語り、姉たちを落ち着かせようとした。それは病床で3年間、生と死について考え抜いた彼女ならではの言葉に思える。
しかし、小島さんに迷いがなかったわけではない。スイス滞在中、宮下氏は小島さんから、次のような本音を聞いている。
「さっき(プライシック)先生が、核心をつくことを言っていました。『あなたはまだ早いんじゃないのか』と。もし安楽死が日本で可能であれば、たとえば、私がしゃべれなくなり、全身が動かなくなり、寝たきりで天井だけ見るようになった時には、ちょっと頼むと言えます。でも、現状、日本ではそれができない。自分ができるうちという見極めが難しいんですね。今が死ぬタイミングだろうか、と思うことはある。たぶん、死を選ぶにはちょっと早いと思うんです」
だからこそ、自らのことを「悪い例」と語っていた。
「お金がかかる、時間がかかる、そして自分の死期を早めている。悪い点だらけです。スイスに行けば安楽死ができるから万歳と、そこまで単純ではない」
彼女は最期まで冷静だった。少なくとも、一時的な感情の揺れでスイスに渡ったのではなかった。だからこそ、改めて問いたくなる。本当に安楽死という道しか、彼女に残されていなかったのだろうか。何が彼女をそうさせたのか。宮下氏が答える。
「それが彼女の生き方だったとしか答えられない。彼女はとても自立心が強い女性なんです。高校卒業後、郷里の新潟を離れ、民主化の只中にある韓国のソウル大学に単身留学し、韓国語を身につけ、東京で身を立ててきた。
ブログを読んでいると、彼女の思考がよくわかる。闘病の現実を題材にしつつも、それを悲観的にではなく、彼女なりのユーモアをもって描いていた。時には、生きることへの希望を見つけようともしていたんです。
3年間、病床で生と死に正面から向かい合った。結果、彼女は安楽死を選んだ。その選択自体は、私は尊重したいと思います」
※女性セブン2019年6月27日号