大正中期の駒込~田端間(『写真集 山手線』より)
国有化3年後の明治42年(1909)には、それまで蒸気機関車牽引列車の独壇場であった山手線が全線で電化され、電車の運転が始まった。同年、品川~新橋(当時は烏森駅と呼称)が、翌年には新橋~呉服橋(当時工事中だった東京駅の仮駅として作られた。東京駅開業と同時に廃止)が開業し、大正3年(1914)の東京駅開業に伴いさらに延伸された。
そして大正14年(1925)、東京~上野の開業により晴れて環状線が完成する。これで現在の山手線がほぼ完成したのである。
◆赤羽~池袋~品川間の鉄道遺産
では、実際に山手線に乗って当時の遺構をめぐってみよう。
スタート地点は赤羽だ。「なぜ山手線の路線上にない赤羽から?」と思われるだろうが、前述のとおり赤羽~池袋は品川線(のちに山手線)として開業した路線だ。昭和47年(1972)に「赤羽線」として分離され、昭和60年(1985)に「埼京線」とされるまでは山手線であった。つまり、山手線を語るうえでこの区間は無視できないのである。
赤羽を発車した電車は土手の上、掘割の底、地上を走り続ける。そして、池袋で左手から来た山手線と合流。ここで山手線内回り電車に乗り換える。池袋から出た後も、線路際の緑が目に優しい築堤の上と掘割の底を走る。西武線をまたぎ、高田馬場を通過し新宿、渋谷、大崎に至るまで、道路や他の線路をまたいだり、またがれたりするものの、ずっと地面の上を走り続ける。
周りの建物がなく、一面の田畑だったとしたら、地方のローカル線でよく見かけるような構造だ。土手や掘割は、線路から地平面までの間に傾斜を設ける必要があるため、必要な土地面積は線路幅よりも大きくなる。しかもその余分に必要な土地は傾斜地であるため有効活用することもできない。
さらに、耐震性や耐候性にも不安が残る。これらは高架鉄道にはない弱点である。実際、新しい在来線や新幹線では山手線のような土手や掘割は見られない。なぜ山手線という日本を代表する路線でこのような構造が採用されているのか。