「佳代子さんなりに頑張ったものの、最後には追い出されるように2人の子供を残して小泉家を出ました。純一郎さんはこの時、『君子、去る者は追わず、来る者は拒まず、だな』という姿勢でした」(前出・小泉家関係者)
結婚からわずか4年後の1982年、純一郎氏と佳代子さんは離婚。当時、佳代子さんは妊娠6か月だった。
当時の心境をのちに佳代子さんは『いきいき』(2016年4月号)でこう明かしている。
《日に日におなかが大きく膨らむ中で、「ひとりで元気な子を産むことができるのか」という不安、そして「子どもを抱えて自立できるのか」という不安――二重の不安に押しつぶされそうで毎日泣き続けていました。
しかも、ふたりの息子とは生き別れた状態でしたから、胸の中にはさまざまな思いが渦巻いて…。今振り返っても、離婚直後はいちばんつらく悲しい時期で、一生分くらいの涙を流した気がします》
孝太郎と進次郎の親権を小泉家が持ち、離婚の翌年に生まれた佳長さんの親権は調停の末、佳代子さんが得た。これ以降、佳代子さんは小泉家と一切の連絡を絶つ。
佳代子さんが息子を失う一方、母を失ったのは進次郎氏だ。当時4才の孝太郎と1才の進次郎の面倒を一身に背負ったのは、純一郎氏の姉である故・小泉道子さん(享年84)だった。
「当時、自分の子供がすでに成人していた道子さんは、『幼い2人に寂しい思いをさせたくない』と子育てに励みました。毎朝5時に目を覚まして『おなかが空いた』と泣く兄弟に、道子さんは右のおっぱいを孝太郎さんに、左のおっぱいを進次郎さんに吸わせていた。お乳は出なかったけど、幼い兄弟はそれで落ち着いたんです」(小泉家近隣住民)
◆大きな“ママ”の存在
道子さんは授業参観や遠足にも積極的に参加。そんな彼女を進次郎氏は本当の母親と信じて「ママ」と呼んだ。
進次郎氏が中学2年生になった時、純一郎氏が真実を告げると、進次郎は「ウソ…」と絶句したのち、「(道子さんが)本当の母親だ」とはっきりと口にしたという。
その後、進次郎は地元の私立大学の付属高校に進学して、野球に打ち込んだ。一方の佳代子さんはシングルマザーとして働きながら三男を育て上げた。
「外で一度も働いたことのない女性が幼子を抱えて、会社員になるのは極めて厳しい道だった。一緒にいたいと泣く三男に、『うちには父親も母親もいないのよ。私は家を支える世帯主』と言い聞かせて育てたそうです。
彼女の口癖の1つは『仕事は努力を裏切らない』。そう自分を納得させないとやっていけなかったんだと思います。会えない2人の息子を気に掛けながらも吹っ切るように仕事に没頭していました」(前出・佳代子さんの知人)