「別れの際、御台所がアンジュに地蔵菩薩、頭獅王に奥州五十四郡の系図の巻物を持たせたように、元々は何不自由なく育った姉弟が奴隷同然にこき使われる、悲惨な話ではあるんですよ。
ただその中にも頭獅王に同情して刈った柴を分けてくれる仲間や、アンジュが姉と慕う伊勢の小萩のような優しい人もいて、人間の善意と悪意が両方描かれているからこそ、古典は古典たりえるのかもしれない。僕も特に黒吉田と呼ばれる作品ではどす黒い悪意をずいぶんと書いていますが、それは間違っていなかったんだなあと、少し安心しました(笑い)」
姉弟は逃亡する度に山椒太夫や残忍な三男・三郎に捕らえられる。やがて身を挺して弟を逃がしたアンジュは拷問で命を落とす。一方国分寺に匿われた頭獅王はお聖様の背負った皮籠の中に身を隠して京をめざすのだが、〈何百年かかろうと、きっと願いを叶えてやる〉と誓うお聖様共々、本当に800年の時を超えてしまうのである。
◆「足るを知る」のは本人次第
〈七条朱雀の権現堂を立ち出でて、三条大橋・八坂の塔はこれとかや。大津走井の井戸で水を汲み、草津の早駕籠、土山春の雨〉と、一行が東海道を東上する間、〈浦賀に立つ黒船ペリーとはこれとかや〉と時代までが行き過ぎ、〈日清日露の大行進〉〈5・15、2・26、1945、8・15〉〈皮籠は揺られて、ほうれほれ〉〈令和恋しや、ほうれほれ〉と文語の心地よさに運ばれた末に、〈内藤新宿とはこれとかや〉とゴールを迎えるくだりは、何とも見事だ。
「この東海道を行く場面はもちろん原典にないのですが、元々お聖様が誓文を立てる場面がとにかく心地良かった。そこで、こういうリズムに乗せることで一気に時空を超えられるんじゃないかと思い、綴りました。この説経節が時代を超えられた要因は何より語り口にあるし、語り自体の面白さやリズムを損なわないよう、言葉を選んだつもりです」