在日韓国人という出自と、無茶であったとはいえ、それまで駆け抜けてきた生き様を、温室育ちの堤家の御曹司に否定された悲しみと怒り。その悔しさを叩きつけるように綴る。
許永中氏の広い人脈は、韓国にもおよぶ。名門財閥の大宇グループの総帥だった金宇中氏とは、合弁会社を立ち上げるなど、かわいがってもらった。
大統領にもなった政治家の金泳三氏とも関わりを持った。野党政治家時代に、東京を訪れた金泳三のために車を出してほしいとの依頼を受けて二つ返事で応じたところ、情報機関の国家安全企画部から「なぜ車を出したんだ」と圧力をかけられ、「祖国の立派な政治家が来られるのに、車も出さんわけにいかんやろうが!」と追い返したこともあったという。
さらには金泳三の元愛人の金銭トラブルを解決してあげたことも。こうした縁のためか、金泳三政権時代には大統領直属の諮問委員会のメンバーとなったこともあると綴っている。
そして自叙伝の底を流れるのは、生まれ育った大阪という街への強い愛着だ。この街で多くの在日が泥田を這うように辛酸を嘗めながらも、たくましく生きてきた。
「大阪は在日の首都や」
許永中氏から私はたびたびそう聞かされた。在日にとって首都は、ソウルでも東京でも、ましてや平壌でもないというのだ。
〈在日と韓国人は同じ朝鮮民族だが、どこかちがう。私たちは日本の水を飲んで育ったのだ。(中略)私の身体にも生まれ育った大阪中津のそばを流れる淀川の水がDNAに入っているのだろう。生まれてから吸った空気が大阪の空気なら、粉ミルクを混ぜて飲んだ水も大阪の水だ〉
許永中氏が大阪の街でやろうとしたことは今となっては跡形もない。いったい何をした人なのだろうか。幾度も話を聞いた私ですら、いまだに説明ができない。
特異な人脈と強烈な個性の持ち主で、戦後からバブルの時代を駆け抜けた人物の自叙伝から感じ取れることはたくさんあるはずだ。
◆文/ジャーナリスト・竹中明洋