ただ今回、モチーフとしてのお札が物語の柱になったのは創作ノートにもある通りです。お札って、みんなが美術作品と思っては扱わないけれど、実はとても複雑なものを表象している社会的絵画だと思うんです。今後は小銭も含めてあの手触りやモノ感はキャッシュレス化で失われる一方でしょうが、絵的にも精巧で優れたお金が、好きなんです。人聞きは悪いけど(笑い)。
お札は一種の版画で、原版ではなくそれを使った複製に1万円なら1万円の価値が付される。かと思えばある日突然価値が紙きれ同然にもなりうる特殊性もあります。その感覚と、嘘を過剰に拒絶し、ノンフィクションにも何かの意図が混ざりうることを想像しづらい今の時代の空気とかも、一緒に書ければいいなあと思っていました」
空襲で四谷を焼け出され、夫が借りていた急坂の上にあるアトリエに義父母を連れて身を寄せたタエはさっぱりした強さと愛嬌、そして現実を〈なるようになるであろうと受け止めるしなやかさ〉を持ち、出征前の貫一を知らないせいか、本物だろうと偽物だろうとどこ吹く風だ。
主人公とは女同士で話も合い、ある時、彼女が教えてくれたアトリエから駅までの道は、自分が通ってきた経路と違って急坂もなく、〈巧いこと道を変えると坂らしい坂が全然ないなんて、なんだか、だまし絵みたいでしょう〉と無邪気に面白がるのだった。
◆入口と出口が全然違う物語
一方、貫一は戦地で知り合った男を自らの〈替え玉〉にしたのだと、“貫一別人説”に拘るのが依頼主の榎田だ。貫一には妾がいたと言い出したのも榎田で、どうもタエに気があるらしい。〈私〉は貫一と戦前からの仲だという妾の金城クマと会い、再び姿を消した彼の消息について尋ねると、派手な身なりといい肉付きといい、まさに熊を思わせる年増の元女給は、ぶっきらぼうにこう言った。