明治三十年頃までは「天皇に関心がない国民も多かった」のだ。
偶然にも『週刊文春』二月六日号の「出口治明の0から学ぶ『日本史』講義」も、こう語る。
「明治政府は『オレたちも世界の新しいスタンダードに乗らなあかん』と考えます。そのために使ったのは何かといえば、『天皇』でした」
「新しいスタンダード」用に、それまで「関心がない国民も多かった」天皇が浮上してきたのだ。
幕末に来日したイギリスの外交官R・オールコックは、日本滞在記『大君の都』(岩波文庫)を残した。「大君」はタイクーン。「徳川将軍のことで、幕末に用いられた称号」(訳者まえがき)である。戦前に刊行された名国語辞典『大言海』で「大君(たいくん)」を引くと「【1】君主の尊称、【2】徳川氏の頃、外国との交際に就きて、将軍の別称としたる僣号」とある。本義では君主を意味するが、二義的に徳川時代に外交上使われた「僣号」でもある、と強調している。戦前の世相を考えれば、そうもなろう。
岩波文庫に付載されたオールコックの小論「日本における称号」では「世俗的な皇帝(大君、タイクーン)と天皇(ミカド)は、公式の称号の面で地位が同等」で「前者は法の施行がゆだねられ」「後者はただ神からさずかったという栄誉が付与されている」とある。
日本国憲法第七条(天皇の国事行為)と同じではないか。国事行為とは形式的・儀礼的な行為のことだ。江戸時代には日本国憲法の天皇観が既にあった?! じゃあ、明治の天皇観って何だったのか。
●くれ・ともふさ/1946年生まれ。日本マンガ学会前会長。近著に本連載をまとめた『日本衆愚社会』(小学館新書)。
※週刊ポスト2020年2月28日・3月6日号