「本人の性格は、昔から負けず嫌い。レース後に大仁と会うと、心配していたほど落ち込んでいる様子はなく、明るく前を向いていました」
長崎県の諫早市で育った井上は地元の市立飯盛中学で陸上を始めた。
「小学生の頃は、球技が苦手で、水泳も苦手で、短距離も遅かったんです。あの頃は、大仁がスポーツ選手になるとはまったく思っていませんでした。中学で陸上を始めてからは、長い距離を走る楽しさ、勝つ嬉しさ。勝ったらまわりの人も喜んでくれるし、褒められる。それが心地よくって、ようやく自分の居場所を見つけられたんだと思います」
中学時代の井上は朝4時に起きて、坂の多い長崎の街で新聞配達を手伝いながら走り回り、健脚を磨いていく。世界最高峰のレース、五輪のマラソン競技を目指したのは鎮西学院高校時代だった。陸上部の入江初舟監督から目標を紙に書くことを促され、井上は「世界に通用する選手になりたい」と書いた。
「『目標というのは、思った分しか達成しない』というのが監督さんの思いだった。たとえば、陸上部で一番になりたいとか、キャプテンになりたいとか、そういう目標なら、陸上部で一番になることやキャプテンになることが目標の限界になり、それ以上は才能を伸ばせない。そこで世界レベルのランナーになりたいと本人は書いたんだと思います」
康子さんには、忘れられないふたつのレースがある。まずは山梨学院大3年次の箱根駅伝。康子さんと正文さんは、5区の山上りを走る息子の応援のため、箱根登山鉄道に乗ろうと長い列に並んでいた。
「山梨、棄権だってよ!」
携帯電話でレースの様子を確認していた駅伝ファンが、そんな声をあげた。直後から康子さんの携帯電話に、山梨学院大のレースを心配するLINEがゾクゾクと届く。
その日、山梨学院大はエース区間である2区を走ったエノック・オムワンバが途中棄権する事態に。山梨学院大はオープン参加となった。
「私たちは、駅伝のルールもよく分かっていなくて。5区に襷が繋がれるまでに『走っても良いの?』と大仁にメッセージを送ると、『記録には残らないけど、走れることは走れます。いつも通りの走りをします。頑張ります』と返ってきた。山を上って、ゴール地点で息子を待っていたんですけど、ゴールの瞬間にヒザからガクンと倒れ込んで、泣いていた。どれだけ箱根駅伝に賭けていたのかがわかるレース後の姿に胸が詰まりましたし、それに加えて、誰よりつらいのはエノック君じゃないかという想いも湧いてきて……」