信川は阿部に対し、相手の襟を掴む釣り手と、袖を掴む引き手をしっかり持たせ、基本に忠実な背負い投げを教え込み、阿部はそれをものにしていく。小学校を卒業すると、地元の公立中学校には柔道部がなく、阿部はわざわざ住所を移して神港学園にほど近い神戸生田中学校に通い、放課後は信川の元に通った。
「阿部の他にもそういう選手はいますし、特別なケースだったわけではありません。阿部の背負い投げは、打ち込み(基本の反復動作)ではなく乱取り(実践練習)で培っていった。中2の全中で、55kg級で日本一になりましたが、やっとこさ勝ったという印象だった。中3になると、担ぎ技でも強引な入り方をして、中途半端な体勢であっても投げきってしまう。身体全体にバネができてきた。全中では60kg級で優勝しましたが、1回戦から決勝まで、かかった時間はあわせて4~5分ぐらい。畳に上がって組んだら、すぐに終わるような試合ばかりで、『圧倒的に強い』と改めて思いましたわ」
将来を有望視されるようになった阿部の元には、全国の強豪校から声がかかったものの、阿部は小学生の頃から指導を受けた信川のいる神港学園に進むことを決断する。そして、件の2014年講道館杯で衝撃デビューを飾った。技の豪快さに加え、一度、相手の道着を掴んだら簡単には離さない「把持力」に目を奪われた。
「握力で相手の道着を離さないというよりは、指でうまく相手の道着を引っかけて、巻き込むようにして道着を掴むので簡単には切られない。そうしたところにも、センスがあります」
講道館杯を高校生で制した前例といえば、井上康生(シドニー五輪100kg級金メダリスト・現全日本男子チーム監督)や鈴木桂治(アテネ五輪100kg級金メダリスト・同コーチ)、石井慧(北京五輪100kg超級金メダリスト・現格闘家)であり、いずれも五輪金メダリストになった。さらに阿部は同年のグランドスラム東京も制して、一躍、代表戦線に名乗りを上げた。
2年後のリオ五輪へ照準を定めていた阿部だが、2連覇を目指した翌2015年の講道館杯は丸山城志郎(26)に敗れ、リオの夢は露と消えていった。
「本人は野村忠宏さんに憧れていた。(野村の3連覇を越える)4連覇という夢も口にしていた。リオに出場できたらそれも目指せるとは思っていましたが……経験と実績など、すべてが足りなかったと思います。もちろん、リオを逃したからといって、阿部一二三という柔道家の未来を悲観する要素はありませんでした」
2016年のリオ五輪以降の国内男子66kg級は阿部の独壇場だった。2017年に初めて世界選手権の代表になるとブダペストで開催された世界選手権を危なげなく制し、翌2018年バクー大会で2連覇に成功した。