◆利用者のモラルにお願いするしかない
トイレの中にはカメラを設置できない。当たり前の話だが、都市伝説の類では多目的トイレの中に監視カメラがあるというネタもあるが、あくまでネタ。もちろんカメラなんかない。
「それでも監視カメラがついてるぞ許せんって理不尽な苦情もあったり、なんかやましいことでもやってんのかなって思っちゃいます。まあカメラと思ってるならいい気分じゃないでしょうけど」
天井にある点滅している装置がよくカメラと間違われるが、あれは人がいるかいないかの感知センサー(人感センサー・動体センサーとも)だ。埋込型のセンサーはともかく、露出角型のセンサーは間違われやすく、原西さんの言う通り誤った苦情が出ることもある。
で、原西さんは実際の現場を見たことはあるのか。
「私はないですけど、合体してる男女がいたってのは聞きましたね、ドアが勝手に開いちゃってね、夢中だったんですかね」
通常、多目的トイレは20分から30分くらいで自動的に開くように設定されている。もちろん障害者や妊婦などが利用するわけで、倒れていたり具合が悪くなっていたりすると大変なので、そういった事故を未然に防ぐためのものである。もちろん犯罪抑止、マナー違反防止の面もある。初期はこうした装置がなかったため、事故、犯罪はもちろん寝泊まりする者が跡を絶たなかったという事情もある。『幸せのちから』という映画でウィル・スミス演じる主人公が落ちぶれて息子とトイレで寝るシーンは印象的だったが、あれはフィクション。実際は迷惑極まりない行為である。
「結局、利用者の方々のモラルってやつをお願いするしかないんです。ごく一部の人だけなんですけどね。こっちも警察は呼びたくないし」
警察を呼ぶと逆に面倒なことになる。死体でも転がっていれば別だが、調べだ聴取だで面倒な上騒動になりかねないわけで、なるべく呼びたくないのはわかる。原西さんはもちろん、日々こんな困った人の対応を迫られる方々に対して本当に頭が下がる。ただでさえコロナ禍で大変だったというのに。
こうして、お疲れのなか話をしてくれた原西さんとは大ガードのあたりで別れた。気さくで柔和な印象だった原西さん、詳しい身の上までは聞けなかったが、もうすぐ正社員になるかも知れないという。コロナもあって先々の安定が欲しくなったとのことで、私と同じ団塊ジュニア、それぞれ幸福のために格闘してきた同士がこうして新たな幸せを掴むというのはとても嬉しいし、私も励みになる。また原西さんのようなエッセンシャルワーカーこそ報われるべきだと思っている。
そんな原西さんをはじめとするエッセンシャルワーカーを困らせる変な連中 ―― 例の芸人含め勘弁して欲しいものだが、こうした事案でしかない悪質な連中はもちろん、多目的トイレを私的な個室のように使う輩は後をたたない。問題となったあおり運転やネット中傷と同様、もはや国民のモラルに期待するのは難しい時代なのかもしれない。悲しいかな、これもまた日本の現実である。
●ひの・ひゃくそう/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本福祉大学卒。日本ペンクラブ会員。評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で第14回日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。2019年7月『ドキュメント しくじり世代』(第三書館)でノンフィクション作家としてデビュー。12月『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)を上梓。