プロ野球の歴史を語るうえで、野村克也さん(享年84)の功績はあまりにも大きい。野村氏は1954年、テスト生として南海に入団。相手の癖を見抜き、投手の傾向と対策を練って4年目に本塁打王、30歳の時に戦後初の三冠王に輝いた。1970年に南海の選手兼任監督になると、佐藤道郎を抑えに起用して投手の分業制を導入。1978年にロッテ、1979年に西武と渡り歩き、45歳を迎えた1980年限りで現役を引退した。
1990年、ヤクルトの監督に就任するとID野球を標榜し、在任9年で日本一3回、優勝4回を成し遂げた。その後、阪神と楽天の監督も務め、両チームの礎を築いた。今季、12球団の監督の半数が現役時代に野村克也監督の指導を受けており、現在も球界に“野村イズム”が浸透している。ヤクルト野村監督の9年間で、チーム最多の69勝を挙げた川崎憲次郎氏が話す。
「引退後、解説者やコーチになってから『野村ノート』を何度も読み返しています。戦術論や技術論も20~30年経った今でも色褪せていませんし、人生訓も物事を考える上で非常に役に立っています。最も印象に残っている言葉は、“変化することへの恐れを捨てよ”です」(以下同)
野村監督就任1年目、高卒2年目の川崎憲次郎はチーム最多の12勝をマーク。翌年も14勝を挙げ、ルーキーイヤーの4勝を含めて3年間で30勝に到達。巨人・桑田真澄の27勝を上回るハイペースで勝ち星を挙げていた。4年目の1992年は右ヒジ痛で1年間を棒に振ったが、1993年は10勝を挙げてカムバック賞を受賞。西武との日本シリーズでは2勝を挙げてMVPに輝いた。本格派の川崎に、野村監督も大きな期待を寄せていた。しかし、1994年は6勝と沈み、ケガで1995年は7試合、1996年は5試合の登板に終わった。
「1995年、野村さんに『シュートを覚えろ』と言われました。でも、自分はまだまだストレートで三振を取りたい気持ちがありましたし、投球スタイルを変えたくなかった。ただ、少し経つと、以前と同じ球速なのにストレートが打たれ始めた。キレがなくなってきたんです。何かを変えないといけないと実感しました」