『野村ノート』の〈変化論〉という項目には、こう書かれていたという。
〈1 変化することへの恐れを捨てよ
2 あらゆる変化は成長の進歩の因子である
3 変化は価値なり進歩なり
4 変化への恐怖は自信のなさから生じる
5 変化こそ生命の本質なり〉
(川崎憲次郎著『もう一度、ノムさんに騙されてみたい』(青志社)より)
1990年代半ばになると、ヤクルトには石井一久という左の本格派が台頭。初優勝の1992年と3度目の優勝の1995年を比べると、先発陣は様変わりしていた。生き残るため、川崎憲次郎は1997年のキャンプでシュートの習得に励んだ。
「あまりに曲がり過ぎると、打者は対応しやすくなる。手元でわずかに変化するシュートを心掛けました。1997年のシーズンでも少し投げていたのですが、他球団にはマークされていなかった。1998年、シュートを多投するようになり、面白いように内野ゴロで打ち取れるようになりました」
川崎はプロ野球人生で2年、200イニング以上を投げている。奪三振の数を比べると、1990年は202回3分の1で154だったが、1998年は202回3分の1で94と減少。その分、打たせて取る機会が増加した。5月28日の巨人戦では、27アウトのうち20を内野ゴロに仕留めている。
『野村ノート』の〈奇跡を起こす三つのポイント〉には、『初めてのことを何かやってみる』『知らない人に話しかけてみる』『古いものにしがみつかない』と書いてある。当時、シュートを投げるとヒジを痛めると言われていたが、野村監督がさほど面識のない“シュートの名人”西本聖(元巨人)に尋ねると、その説を否定。川崎はストレート勝負の理想を捨て、シュートという未知の球種に取り組んだことで、この年17勝で最多勝に輝き、投手最高の栄誉である沢村賞を受賞した。