「一番私が反省しなければならぬと思ってしょっちゅう若い読者に話しているのは、日本人の結合力というものは、孤立の淋しさからきているのですね。そのためにみなのすることをしないでおっては損だという気持が非常に強いのです」(家永三郎との対談「日本歴史閑談」より)
「孤立の淋しさ」が、「一種の言葉」だけに結合した先にやってくるのは、「不幸な挙国一致」でしかない――柳田の言葉は、SNS全盛、インターネット全盛の今だからこそ問い直されるものであるように思えてならない。柳田はさらにこう指摘している。
「あなたの思うことは私がよく知っている。代って言ってあげましょうという親切な人が、これからはことに数多くなることも想像せられる」(「喜談日録」より)
現代の「代弁者」は巨大な樹木のように、組織だって現れるわけではない。大きな危機に立ち向かうために、「日本人」「都民」の協力を求め、「孤立の淋しさ」を掻き立てるように現れる。
「不幸な挙国一致」が起きていないか。これがまさに今、この瞬間に問われている課題だ。